「犬も食わない」尾崎世界観/千早茜

 尾崎世界観の本ばっかり読んでんじゃないわよ、これでもう3冊目じゃないの、と思いながら、また本屋さんで尾崎の本を手に取ってしまった。そして、数年前に別れた元彼のインスタをわざわざDMの履歴から探してきて眺めているときのような罪悪感にも似た気持ちで今これを書いている。私だって、なんだってそんなに偏向的なんだと自分自身で思っている。いつもお昼ご飯を食べるときは、同じ定食屋で同じメニューしか頼めない。狂ったように朝井リョウの小説を片っ端から読み漁った時期もあったし、それが湊かなえであったり、高橋菜穂子であったり、三浦しをんだったり、島本理生だったりした。でも、そういうふうに偏屈な読書体験を積み重ねて分かったことがある。彼らの文学は、その時期の私に必要な栄養素なんだ。今の私は、尾崎世界観の文学を必要としている。

 尾崎世界観と千早茜がもはや殴り合うように作り上げた、文字通り犬も食わないこんな話も私にとっては大事な栄養素なんだろう。島本理生を読み漁っていた時期よりは大分良くなったものだ。食える話というか、噛めば味のする話よりも、今は味以前に到底食べられたものじゃない酷い話を欲している。そもそも、他人の恋愛なんてものはいつも到底食えたもんじゃない。考えてみれば当たり前の話だ。そう考えると、今私が欲しいものはそういうリアリティなのかもしれないなと思った。

 犬も食わない他人の恋愛なんて無数にあるけれど、それ以前に犬も食えないような男に平気で恋をしている女がいる。そんな男のどこがいいんだ?と女友達に揶揄されながら、自分自身何がいいのかも分からないまま、盲目に縋っていたい。そんな女心は痛いほど分かってあげられる。あのときの、あの男とのあの瞬間よりも、もっと深く奥深くまで愛したい。表面上は何もよく見えなくても、そんなことはどうでもいいくらい、そんなことが考えられなくなるくらい彼の奥に触れて、その深淵を覗いたその先に、どうしようもなく愛しい何かがある。あのときの熱くて甘ったるい感情は他人に理解されないなんて悩みをあっという間に溶かして、むしろその甘さを引き立たせるような隠し味にしてしまう。いつの日か年数が経って、そのときの恋の味を忘れてしまっても、私のどこかにフライパンの焦げ跡みたいにこびりついている。だからいつまでも、そういう恋をやめられないんだ。

 マイヘアが好きだったあの子も、RADが好きだったあの子も、SiMが好きだったあいつも、バンプが好きだったあの人も、ラルクが好きだったあの人もどの人のことも私は分かってあげられなかった。完璧な人なんていないから完璧じゃないところを愛してみたかった。相手の不完全な部分が愛おしくてたまらなくて私が全部埋めてあげたい。同時に、自分の不完全な部分に相手がじわじわと流れこんできてはドクドクと鼓動しはじめて、いつの日か相手が自分の全てになってしまう。入り込める隙間が大きければ大きいほど流れ込む愛情は膨らんでいって、そんな男のどこがいいの?なんて言われたところで、簡単に冷めるものではなくなってしまう。犬も食わない、そんな話。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?