平穏

2019-11
最近まで気づかなかったが,私の人生は今,これまでになかったような平穏の中にいる.周りには優しい人ばかりで,私の心を荒立てるような不快なことはほとんどない.世の中の理不尽に精神を侵されることも,そこから逃げ出そうとする自分を塞きとめるものない.自分が不幸だなんて,とてもじゃないが言えない.自分が不幸だと信じ,そこから抜け出そうとしていたあの時に欲していたもののほとんど全てを,自分は手に入れている.この平穏なるものを手に入れることが幸せになることだと信じて,努力をしてきた.そして今,ほんの一時かもしれないが,夢見ていたその状況の中にいる.漫画とかだったら,今から始まる未来が待ち遠しくてたまらない!人生はこれから始まるんだ!とでもなるところだろう.しかし今,そんな幸せを抱えながら私は,自分にとっての幸せは何なのかがわからなくなっている.と言うより,頑張る理由みたいなものを失ってしまったようだ.普通だったら認められたいとか,世の中を良くしたいとか成長したいとか,新たな目標の達成を目指して日々燦々と生きていくんだろう.でも,私のこれまでの大きな目標,心の表層ではなく根底から真に達成したかったであろう目標は,恐らく辛い日々からの脱出であって,それは一旦達成されてしまった.もちろんそれを手に入れるまでに,世の中の気に入らない部分を改善したいとか,辛い人々を救いたいとか,次の目標となり得るようなものは浮かんでいたのだが,それらは恐らく自分中の平穏を手に入れる過程で必要に応じて無理やりひねくり出されたもので,今こうして幸せに生きている自分にはそこまで魅力的に映っていない.なんで過去のそういった目標を熱の薄れた目で見るようになってしまったのかというと,それは,自分が真に心から欲してきたものが,平穏でしかなかったからだと思う.つまり,大きな目標を掲げてそれを達成するために努力できるほどバイタリティのある人間ではなかったということだ.壮大な目標の達成によって得られるのは他人からの承認や世の一端を掌握したという愉悦感であって,それらを得るためにまた泥を舐めるような日々をおくれるかというと,私には難しい,不可能に近い.むしろ,それらのギラギラした欲求を満たしてしまった人間になりたくないとすら考える.私の家族はそういった世界とは真反対のところで汗を流してみんなを育ててくれたと思うし,それをありがたくすすって私は生きてきた.私も数百円を節約するために色んな我慢をしたし,そういう生活をしてきたというプライドがある,人が羨ましがる良い生活なんてものを手に入れたら,今までのそういう人生を否定してしまうような気がする.なんなら,今現在の,9時半に家を出て19時に帰宅するような,平穏でストレスレスな生活にすら自分の人生を否定されたかのような違和感を感じる.ちょうど良い温度の部屋で昔のひと月のバイト代よりの倍はするような椅子に座りながら,汗を流すなんてこともなく数十万を稼ぐ.バカみたいだ.昔の,自分を不幸と信じていた私がそれを見たら,こんな人間は死んだ方が良いと言うだろう.そして,自分の辛い生活とのギャップから来る悔しさで,泣き声を殺しながら枕を殴りつける.私は一体何をしているんだろう.どこに向かっているんだろう.このまま数十年生きて,そのまま死ぬのかな.しかし,そんな違和感を感じていても,私は今の平穏な生活を崩壊させるなんてことは,怖くてできない.そもそもこんな幸せをいつまで続けられるのかわからない.明日いきなり,お前にそんな暮らしをさせる価値はないと言われるかもしれない.でも,そうなったら,まぁそれでも良いかなと思う.自分からそれを壊すことはできないけど,他人に追い出されたらすぐに諦める.今の私は,社会の寄生虫でしかない.昔の自分は,世の中の泥をすすって綺麗にして排出し直す,微生物未満ぐらいの役割はしてたと思う.でも,今の私は,栄養を吸い取るだけの寄生虫だ.社会の豊かな部分に食いついて,自分のことだけ考えて平穏に暮らそうとしている.活き活き血をたぎらせながら働く細胞の間に潜り込み,何てない顔で他人の活力が生み出す甘い汁をすすっている.むしろ私が寄生虫だったら,なんとよかったことだろう.それならば,私は自分の役割を果たしていると言えた.だが,私は残念ながら人間で,寄生虫のように生きる人間は一般的にゴミ未満とされる.少しでも成り上がり,普通の幸せを手に入れたいと思って努力して来た結果がこれだ.夢に向かって努力していたら,いつのまにか退化していました.あはは,なんて笑い話なんでしょう.いや,生物としては勝ち組なのかもしれない.結局人間なんていうのは,なんらかの志がなければ,いつかは寄生虫になってしまうのだ.そして私も,そんな世の中に潜んでいた,寄生虫の卵の一つだったんだ.明日になっても,私は自分が害虫であることがバレずに生きていけるだろうか.もしくは,ギラギラした世界にちゃんと馴染んだ,立派な人間として生活できるだろうか.平穏の底に沈んだ私は,その表面を見上げながら,いつ太陽に焼き払われるのだろうという不安に覆われ,一日を閉じる.


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