優先順位だとかなんとか

 忙しい、を断る理由に使用するときは相手の優先順位が低い時である。という屁理屈を聞いたことがある。
 屁理屈などという言い回しは自分にとってあまり愉快に感じない理屈なだけであって、屁理屈もそれ以外の理屈も理屈は理屈である。
 
 とはいうものの、冒頭で僕が屁理屈と言い放ったのは、そのことがわざわざ誰かを不愉快にする確率が高い解釈の仕方にしかならないと思ったからである。
 確かに忙しいことの理由になっている事柄は、断った相手よりも優先順位が高いわけであるが、注目すべきは「なぜ」優先順位が高いのか、ということである。
 例えば、先に約束をしていたから、であるとか、目上の人との約束であるから、だとか、仕事の用事だから、などであれば、優先順位は上がりやすい印象である。

 「たかがそれだけ」のことであると僕は思う。たかがそれだけのことをわざわざ冒頭で紹介したような言い回しにしてしまうことには悪意を感じざるを得ない。
 ある程度譲歩して、悪意とまでは言わずとも、何ともわがままで自己中心的な考え方ではないだろうか。

 社会は理屈とか契約だけで成り立っているわけではないし、成り立たせる、という目的においては思いやりとか、それに付随するデリカシーとか、そういうものが潤滑油としてまたそれ以上の必要不可欠な要素としてあると思うのだ。

 さらに、自分のことを高い優先順位で捉えてくれる人、という基準ではなく、自分が素敵だと感じる人物であるかどうかを、濁りのない目で見るということを心がけることは、人生に潤いをもたらすことにつながると、またお得意の何となくのレベルであるが、つまりそう思うのである。

 なんだか最後はふわっとした、何の立証もしないままの思いを吐露したようなことになってしまった感は否めないけれど、一つの記事の中で一番書き記したいことというのは、えてしてそういうものになるのかもしれない。
 そしてそれを臆面もなく書き記せるようになった僕は、ごく最近の僕であり、そして最近の僕のちょっとしたお気に入りの部分である。

 



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