高校時代の思い出、という言葉の塊は僕にとってイコール部活動であった。比喩でも誇張でもなく部活以外の思い出は殆ど思い出せない。 吹奏楽部。いろいろなクラブ活動がある中で文科系のクラブではこれに所属していたという人口はそこそこ多いのではないかと思うが、それでも厚かましく吹奏楽は僕のアイデンティティだと言っていいほどの割合を占めていた。 僕の高校は、吹奏楽部としては弱小高校と呼ばれるようなものであったけれど、その中で自分なりに目標というか守るべき自尊心というか、いわゆる
今月の振り返りを書き始めている今は4月30日の午後7時半である。この記事を投稿するタイミングが5月に突入していようとも、今この瞬間の日時がこの記事において有効となるのである。僕はついに時間をも超越してしまった。 はい、文字数を稼ぐ大作戦でございました。 毎月、特別に一か月を振り返ろうという発想はないのだけれど、今年僕を取り巻く環境は、4月のとても4月らしいところを感じるような4月であった。 僕は、ではなく僕を取り巻く環境は、としたのはその言葉通りの意味で、僕自
大きな変化がある時期というのは、一つの時間の中に色々なことが凝縮されている可能性が高いわけで、何かを学ぼうとする姿勢でいるものにとってはその材料に満ち溢れているのかもしれない。 このように無責任に、いつものごとく取り留めもないようなリズムで考えとも呼べないようなものを頭の中に走らせてはみたものの、なかなかそのことを検証しようという気すら起きない。 なぜそう無責任でいるかといえば、果たしてそうだろうか、な部分が多すぎるわけである。 つまり、特に凝縮された時間を感じ
これまで僕が他の媒体で発信するときや誰かと話すときに、極力自分の嫌いな物、人、の話は避けるようにしてきた。 嫌いなことを伝えることは特にダメなことだとは思っていないのだけれど、何かを否定するということには強い違和感を持っていて、その「否定」と「嫌い」が受け取り手の中でごちゃまぜになってしまうことを懸念するあまりのことである。 そのような前置きをして今回書きたいことというのは、普通、ということについてである。 特に人物評においての普通という表現にこだわる感じが僕は嫌い
大学生の頃、コーヒーに凝った時期がある。 以前別の記事でも少し触れたような気がするが、道具にこだわり、豆にこだわり、挙句の果てには生豆を焙煎しようというところまで挑戦した。 なかなかに自己満足の世界を展開していたように思う。 そしてその自己満足はとても拙い世界ではあったが、振り返って恥ずかしく頬を赤らめなければならないようなものではない。 僕が思う大学生なりの粋なままごとを楽しんでいたような感覚がある。 今はあのころとは全く違った形で、それでもコーヒーは僕にとっ
ストレスの解消にはどうやら「出す」という行為が随分とカギになっているらしいということを何かで目にしたことがある。 一口に、出す、と言ってはみても実に様々な、出す、があるだろうが、そのさまざまのほとんどすべてを包含していると言っていいほど、ストレス解消における「出す」の解釈は幅が広いようである。 その中でもイメージしやすいであろうものは、ショッピングではないだろうか。つまり、お金を出す、という行為である。 買い物をストレス発散の手段としている人は割合として非常に高い
我が家は、というよりも僕はこの春から随分と生活のリズムが変わった。 大仰に言えば僕を取り巻く環境が変わった、ということであり、それに伴って自由に使える時間や心の空きスペースが増えた。 僕にとってはとても心地の良い環境の変化である故に、もともと暇な時間が苦手な僕であるはずが、今回はそのことを堪能している節がある。 とはいうものの、そろそろ僕の何か新しいことを始めたい欲が小虫が体を這う如く駆け巡るような予感はある。 今のところ始めたい何かというものの具体的な候補は
朝起きて、何となく今日はこういう一日になるんだろうなあとイメージしたことと、その一日が終わってみると全く違った一日になっていることは本当によくある。 特に休日にはそのようなことが多い。 今日は早く起きたから歩いて15分くらいのところまでのんびり散歩して、分厚く切った食パンとベーコンエッグが名物のカフェでモーニングを楽しみ、そのあとの帰り道は往路と違った川沿いの道を通り、途中で堤防に10分ほど寝そべりぷかぷか浮かぶ綿菓子をぼんやりと眺めながらどこにも掲載しない俳句などを
忙しい、を断る理由に使用するときは相手の優先順位が低い時である。という屁理屈を聞いたことがある。 屁理屈などという言い回しは自分にとってあまり愉快に感じない理屈なだけであって、屁理屈もそれ以外の理屈も理屈は理屈である。 とはいうものの、冒頭で僕が屁理屈と言い放ったのは、そのことがわざわざ誰かを不愉快にする確率が高い解釈の仕方にしかならないと思ったからである。 確かに忙しいことの理由になっている事柄は、断った相手よりも優先順位が高いわけであるが、注目すべきは「なぜ」
何かを始めるときには、ちゃんとしたい、と思う癖がある。 とことんまでやりたい、とは少し違った感情である。 ボウリングに凝っていた時期がある。大学生の時にプチボウリングブームが起こりかけけていて、千円ほどで投げ放題の企画をやっていたので当時の仲間とボウリングにはまったのだけれど、特に夢中になったのは僕だけだった。 そうなると行動が早いのが僕の特徴である。すぐにマイシューズやマイボールを揃えて、きちんと競技としてやりたくなってしまうのである。 基本のフォームや正しい
他人に何かを勧めるというのは非常に難しい。 特に映画や本、アニメなどなど直接的に感性に関わるものであれば勧めることを躊躇してしまうことが多い。 当然のことながら感性は千差万別、十人十色であるからだ。 僕自身は、読書傾向の偏りを少しでも軽減するために、時には誰かのおすすめの本を紹介してもらうことは嫌いではないのだが、そもそも、嫌いではない、という含みのある表現をしている時点で何か煮え切らない思いは深層心理に近い部分で抱いているのであろう。 嫌いではない、の内訳と
つくづく日本語というものは美しいなあと思ってはみるのであるが、それはただ日本語は美しいということだけであって、日本語以外が美しいかどうかは僕にはわからない。 爆ぜる、という表現は日常会話には早々登場するものではない。少なくとも僕を取り囲む環境の中ではそうである。 日常的に使われにくい背景を考えてみると、詩的であるために大げさな表現になってしまうから、というのがひとつ上げられる。 他には、単に爆ぜる、という言葉が持つ範囲がかなり限定的であるからなのかもしれない。
冒険、僕の人生にそう呼べるようなものがあったかと振り返ってみても、典型的なそれは思い出せない。 ボウイスカウト、インディジョーンズ、ツチノコ探索、今日の僕の連想ゲームは何とも貧困であるなあと苦笑いするところである。 しかしながら、人ひとりが舗装されたりじゃりじゃりの道だったりを半世紀近く歩んできたのだから、語りようによっては大冒険物語にしてお聞かせすることもまた可能なのかもしれない。 舗装された道、と表現したがそんなものはあるのかないのか、そもそも、道なき道を歩
少なくとも僕の考える愛は、 愛してる、とか愛される、とか、動詞で使うものではない。 動詞で使う愛は、確認作業のような、誓いのような、覚悟のような、そんな意味合いに思う。 愛、とはまた違ったものなのである。 少なくとも僕の考える愛は、 泉のように、また、泉というにはあまりにも際限がなさすぎるほど、湧き出ているもの。 物理法則に干渉することもされることもなく、したがって無限という概念すらもいらぬほどに、そこかしこに溢れているもの。 少なくとも僕の考える愛は
その男爵イモは世界のホクホクを一手に担っているかのような出で立ちであった。 その男爵イモは、男爵イモというよりむしろ、イモ男爵であった。 その男爵イモは、あのハンバーグよりも目立っていた。だからイモ男爵であった。 そのイモ男爵はあのハンバーグのための濃厚デミグラスソースを我が物顔でその体に纏わせていた。やはりイモ男爵であった。 あのハンバーグには選べるライスかパンが付いていた。 あのハンバーグは間違いなく鉄板という舞台の主役を張っていた。 あのハンバーグは肉汁
世界はなかなかにジレンマに満ちている。 どこまでも身勝手な僕の正義感とやらに基づいた話なのだけれど、誰かを思いやることは、思いやることだけで完結している。 僕は、声高に何かを主張したり、唾を飛ばしながら自分の正義を押し付けたりすることを嫌悪する。「違和感を感じる」とキーを叩いたのだが、逃げ腰を感じたので「嫌悪」という言葉をここでは愛することにする。 差別、ハラスメント、コンプライアンス、いじめ、人種、ええっと…せとら。 全員ではなくとも多くの人がそれぞれに