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李朝大越国と高麗における宋代官僚制の受容と修正


 918年に朝鮮半島で成立した高麗は、官吏登用試験である科挙を958年に導入し、960年に宋が成立すると、以後はその官僚制度を模倣した。高麗は中心機関のほか地方制度や兵制なども宋に倣い、徐々に官僚国家としての基盤を確立した。そして、インドシナ半島では1009年に李朝が成立し 、伝統的制度と唐制を基盤にしながら徐々に宋の官僚制度を模倣して1075年には科挙を導入した。このように、高麗でも李朝でも宋の官僚制度が受容されたが、社会経済状態などの下部構造に相違があったため、部分的な導入に止まるか、あるいは修正が加えられて独自の発展を遂げた。
 そこで本稿では、宋・高麗・李朝の政治史を簡潔に確認しつつ、官僚制度全体を俯瞰して比較検討することで、それぞれの独自性について考察するほか、その過程で各々の官僚制度の相対化も試みる。


第1章 北宋(960-1127)

第1節 北宋の成立(9-11世紀)

 唐代末期、幼年の僖宗(位873-888)が宦官に擁立されて即位したことで世情が混乱し、山東の塩賊であった黄巣と王仙芝による黄巣の乱(875-884)が発生した。また、飢饉で窮迫した農民がそれに乗じて群盗化し各地で蜂起したことで社会情勢は混迷を極めた。沙陀突厥出身の李克用ら節度使連合軍の活躍で唐朝は乱の平定に成功したが、黄巣軍から唐に寝返った降将朱温が唐朝から全忠の名を賜って藩鎮となり、自身の拠点であった開封に唐の朝廷を移してその権威を勢力拡大に利用した。907年に朱全忠は哀帝(位904-907)から禅譲を受けて後梁(907-923)を建てたが、後梁には中国全土の藩鎮を征伐して再統一する国力はなく、以後は五代十国時代と呼ばれる分裂時代に突入した。
 五代十国時代末期、951年に成立した後周(951-960)は、五代随一の名君とされる世宗のもとで国力を充実させ、中国の再統一に向けて周辺諸国に戦争を仕掛けた。しかし、959年に世宗が急死すると、幼少であった柴宗訓(恭帝、位959-960)が後を継いだため、統一事業の続行が危ぶまれる事態となった。そこで、これに危機感を抱いた武人が趙匡胤を推挙し、彼が恭帝から禅譲を受けたことで北宋が成立した(陳橋の変)。
 北宋の太祖(趙匡胤, 位960-976)は五代十国時代に蔓延っていた実力重視の武断政治を廃し、文治主義を採用して君主独裁体制の強化を図り、節度使から行政権や財政権を回収して権限を縮小するのと同時に、節度使の欠員を文人官僚で補充することで事実上の節度使廃止を推進し、また皇帝直属の正規軍である禁軍を強化して地方の防衛も担当させることで州県にも直接支配を及ぼした。さらに、太宗(在位976-997)の時代には全土を十余りの路に分けて各々に按撫司(監察)・転運司(財政)・常平司(厚生)などを設け、また皇帝の代理という建前で「使」と呼ばれる長官を置いた。なお、「使」は制度上では中央官僚であり、ここに地方の直接支配の原型が完成することとなった。
 さらに、太祖期には従来の塩・酒・鉄に加えて茶も専売としたほか、唐代に設置された塩鉄使・度支使・戸部曹を塩鉄司・度支司・判戸司に再編し、この三司を統制する財政の最高職として三司使を設置することで 、中央政府の財政管理を強化した。そして、文治主義の実践を支える文人官僚を採用するための科挙も州試・省試・殿試の三段階に整備され、進士科と諸科(経義科)が設けられたが当初の及第者は少なかったが 、太宗期では一転し多くの科挙合格者を採って優遇するようになった。なお、殿試とは太祖によって初めて導入された皇帝による最終試験であり、受験生に名誉を与えて忠誠心を培うのと同時に、皇帝と官僚の直接的な紐帯を生み出す巧妙な装置として機能した。
 また、宋代には皇帝と官僚の個人的紐帯を生み出す仕掛けとして「対」と呼ばれる政治的交流も発達した。唐代以前の官僚は行政機関の長たる宰相を通して皇帝に意見具申することが一般的であったが、唐代後半から官僚が皇帝に直接意見具申する対が徐々に発達した。なお、皇帝と官僚が日常交流できる場としては「視朝」と「起居」が代表的であった。前者は重要な政務を司る宰相以下の高級官僚が垂拱殿に参内して政務について意見具申する場であり、後者は政務をもたない群臣が意見具申する場であった。なお後者には、毎日行われる「常朝起居」と年に1度行われる「内殿起居」が存在していたが、「常朝起居」には皇帝が政務多忙で出席しないことも多かったため形骸化し、のちに廃止された。

第2節 動乱の世紀(11-12世紀)


 真宗の跡を継いだ仁宗(在位1022-1063)は幼少であったため、1033年まで母の章献明粛太后による垂簾聴政が行われた。しかし、仁宗親政が始まったころに官僚の世代交代が進み、参知政事などの役職に范仲淹ら新進官僚が登用され、結果としては失敗に終わるものの政治改革が試みられた(慶暦の新政)。また、仁宗親政期には糊名法や謄録法といった不正対策が殿試や州試のみならず郷試においても導入されるなど、科挙制度改革が進展して新たな局面を迎えた。
 しかし、その裏側で制度疲労が進んでいた。文治主義を掲げたことによる官僚機構の膨張に伴って人件費が増大していたほか、遼や西夏の度重なる侵入によって軍事費も増大しており、また税制の不均衡や徴税の不備などから宋の国家財政は窮乏していた。
 そこで、神宗(位1067-1085)は王安石を中央に抜擢し、1069年に参知政事、翌年には同中書門下平章事として新法を施行させ、財政再建と富国強兵を図った。なかでも、新法の中心となった青苗法の施行に際しては制置三司条例司が新設されて新進官僚が数多く抜擢されたが、これに欧陽脩、韓琦、司馬光ら保守派の有力官僚が反対したことで、新法党と旧法党の対立につながっていった。なお、財政再建策としては青苗法のほか、均輸法、市易法、募役法などが施行され、さらに方田均税法によって税制の不備解消が試みられた 。また、富国強兵策として保甲法や保馬法も施行された 。
 さらに、1069年に明経科を廃止する一方で法律専門家養成のために律義 ・断案 を課す新科明法科が設置されたうえ、進士科では帖経・墨義・詩賦を廃止して経義・論・策に変更され、実務能力重視へと転換が図られた。さらに、士大夫の倫理的価値観を統一するために『三経新義』と『字説』が編纂されたほか 、1068年には三舎法の施行によって太学 の定員を外舎・内舎・上舎のそれぞれで増員した。この制度においては、平常点と試験点を基準にして優秀者を外舎、内舎、上舎へと順に進ませ、上舎の卒業試験たる舎試に及第すれば科挙の第一甲進士と同等の資格を与えた。これは、学力を重視しながらも科挙を経ずに官僚を選抜する形式として、官吏登用法の画期となった。
 そして、建国当初から理念を欠く役職を新設し無味乾燥な名称を付与してきたことで、結果として一見すると支離滅裂に感じられかねないような複雑な寄禄官制度となっていたが、三司の廃止などによってそれらを再編することで行政の効率化を図った。しかし、1076年には旧法党の批判に堪えきれず王安石が宰相を辞任したうえ、彼が抜擢した新進官僚による新法政策も1085年に神宗が急逝したことで頓挫し、改革は志半ばで挫折することとなった。
 神宗の跡を継いだ哲宗(在位1085-1100)は幼少であったため、母の宣仁太后による垂簾聴政が行われたが、彼女は旧法党の官僚を重用した。そのため、進士科では再び詩賦が重視されたほか、『三経新義』と『字説』が禁じられ、三舎法も停止された。この結果、旧法党が内部対立によって影響力を低下させるなどしたことから、哲宗親政期には新法党の章惇が宰相に任命され改革路線に復帰した。
 その後、哲宗もまた夭折すると弟の徽宗(在位1100-1126)が即位したが、徽宗もまた弱年であったため神宗の皇太后向太后による垂簾聴政となった。垂簾聴政期には新法党と旧法党を折衷する人事が行われたため大きな揺り戻しは生じなかったが、徽宗親政期には新法党の急進派であった蔡京が宰相に任命されたため、混乱が生じた。というのも、蔡京は司馬光ら旧法党を排斥したほか、新法の名の下で人民に重い税と賦役を課したからである。この結果、徽宗親政期には社会情勢が不安定となり、1120年代には華北での宋江の乱や江南での方臘の乱といった大規模な農民反乱が頻発した。また、対金政策でも失策を重ねたことで1126年には靖康の変で金に開封を占領され 、北宋は「突然死」することとなる。

第2章 高麗(918-1392)

第1節 揺籃期(9-11世紀)

 892年、新羅の情勢不安に乗じた甄萱が武珍州(現在の光州)で挙兵して後百済(900-936)を建国し、また899年には弓裔も反乱を起こして摩震(泰封・後高句麗, 899-918)を建てたことで、新羅・後百済・後高句麗が鼎立する後三国時代に突入し。しかし、918年に後高句麗の有力武将であった王建(太祖、位918-943)が弓裔を放伐して高麗を建国し、さらに935年に後百済の内紛で甄萱が高麗に亡命したうえ 、同年に新羅の敬順王が高麗に帰順したことで新羅が滅亡し、翌年には高麗が後百済を攻め滅ぼしたことで、朝鮮半島は再統一された。
 高麗の太祖は各地の豪族と血縁関係を結ぶことで豪族勢力を政治基盤としつつ、豪族に大匡や正匡といった官階を与えることで、新羅の骨品制とは性質を異にする高麗的秩序を形成した。また、940年には役分田を定めて豪族に対して各自の功績を基準として田地を給付し、高麗の基本的な土地分給制となる田柴料制を創設した。そして、太祖の跡を継いだ恵宗(在位943-945)が945年に急逝すると、功臣であり外戚の座を狙っていた王規による謀殺が疑われ、太祖の第2子王堯が西京の王式廉の助力で王規一派を打倒し、定宗(位945-949)として即位した。彼は中央政府を牛耳る官僚や豪族の既得権益を除去しようとして、風水地理説の信仰を建前として王式廉の本拠地であった西京への遷都を試みたが、反対派によって阻止された。
 定宗の没後、跡を継いだ光宗(位949-975)は956年に奴婢按検法を発布して後三国時代の混乱期に奴婢に転落したものの救済を図り、また同時に奴婢を使役して大土地経営をしていた豪族の勢力削減を試みた。また、中国からの帰化人を積極的に採用して行政改革に取り組み、958年には科挙を導入し進士科と明経科を実施したほか、僧侶登用試験の僧科も設けられた。しかし、地方では新羅以来の郷里制度が残存し在郷勢力が中央の干渉を斥けていたほか、五品以上の官僚の子息は恩蔭の制によって官僚となることができたことから科挙官僚の貴族化が促された。この結果、地方豪族が科挙を通じて官僚を輩出し中央で門閥貴族を形成するようになったほか、両班貴族と呼ばれる独自の貴族階級の原型が形成された。そのため、光宗の治世後半では豪族の勢力抑制に躍起となり、その排除は粛清とも言えるほどにまでになった。また、その過程で誹謗中傷が飛び交って復讐殺人が横行して社会不安が増大した 。
 しばらくして、中央集権化を目論んだ成宗(位982-997)、豪族との対立を避けるために奴婢按検法を廃止する一方、儒学者崔承老らの献策で新羅以来の郡県制を廃して州県制に再編した。また、地方に十二牧を置き各牧ごとに地方官を派遣し、また地方の各邑に州・府・郡・県の格付けをして掌握することで、各邑の郷吏に対する国家統制を試みた。これは地方官の官僚化を推進させる政策であったが 、光宗期に改革を妨げた新羅以来の郷里制度を克服するものであり、高麗の中央集権化にとっての画期となった。
 また、彼の治世下で官制改革が進み、宋に倣って官僚制度が整備された。具体的には、内史(中書)門下省、中枢院(枢密院)を置いて両府と呼び、また中書門下省の門下侍中、門下侍郎平章事、参知政事、政堂文学、知門下省事と中枢院の判事、中枢院使、知中枢院事、同知中枢院事、簽書枢密院事、中枢院副使、知奏事などを宰相とした。そして、太祖が創設した田柴料制についても、各自の業績を個別評価する形態から官品・官職で一括評価となり、両班官僚制度の制度的な基盤が確立された。
 揺籃期に宋の官僚制度を受容した一方で困難が生じた背景には、官僚や豪族の個別分散的な行動と国家権力の不安定性が指摘されているが 、幾度かの困難を克服することによって高麗の政治的基盤が強固となり、またその過程で国家財政も拡充された。ただし、官僚となったのは士大夫ではなく豪族から選抜された者であったため、北宋のような君主独裁制の確立には至らず、両班貴族と呼ばれる独自の貴族階級が形成された。

第2節 安定期の到来(11-12世紀)


 11世紀半ば、宋が新法を巡って党争を繰り広げていた一方、高麗では文宗(位1046-1083)の時代に成宗期の官制改革がさらに進展し安定期を迎えた。先述の判事や宰相が定員化されたうえ、宋制に倣ってその班次や禄料も定められ 、また進士科の及第者が両府の宰相や高官となり科挙が官僚制度を支える基盤として確立された。また、儒教思想を尊重し、また徳地主義的な政治理念を布教することで、集権国家の建設を試みた。
 また、官僚国家としての基盤が確立された高麗の王権は増大しており、粛宗(在位1095-1105)は海東通宝を鋳造する貨幣政策を行ったほか、北辺を圧迫していた女真族に対応するために禁軍・地方軍を拡充した。ただし、これは皇帝独裁体制を示唆したものではなかった。というのも、睿宗(在位1105-1122)の時代には国政上の重要事項を決定する際には両班貴族に諮問する機会を設け、支配階級一般の意思を尊重していたからである。この支配形態を、矢木(1993)は貴族制的君主制と称している。
 しかし、その内実は安泰ではなかった。門閥化した両班貴族が王族との婚姻を利用し外戚として栄華を極めて朝廷内外に絶大な影響力を及ぼしていたのである。とくに、顕宗から文宗まで4代50年に渡って外戚を独占した安山の金氏と、文宗から仁宗の7代80年間に渡って外戚を独占した慶源の李氏が権勢を振るったのが代表例であった。両者はともに外戚の独占によって勢力の安定を図った豪族であったが、これは宋の官僚制では見られなかった点であった。
 以上を総括すると、11世紀から12世紀の高麗では科挙制度の浸透と、両班貴族との利害調整システムの定着によって外観としては相対的な安定期に突入した。しかし、門閥化した両班貴族による重要官職の独占などから、その内実は安定しているとは言いがたい状況になっていた。この点、蔭位の制が限定的であり門閥化が抑制された宋とは対照的であった。

第3章 李朝―胎動から衰弱死まで(1009-1225)

 1009年、前黎朝の将軍であった李公蘊(太祖, 在位1009-1028)が軍を掌握してこれを打倒し、李朝(1009-1225)を建てた。しかし、李太祖には国内の豪族を征伐するほどの軍事力がなかったため、建国当初から都昇龍(現在のハノイ)周辺にも半独立在地勢力が割拠していた。また、李朝はヴェトナムの民族的伝統を重んじた制度を基調としながら 、宰相官として太師・太傅・太尉・太保を設けるなど宋の諸制度を導入したものの 、中央集権的な統治体制を築き上げるまでには至らなかった。そのため、宋が皇帝独裁体制を確立したのとは対照的に豪族の連合政権的な性格を帯びることとなった。
 李朝は11世紀後半に最盛期を現出し、北宋に安南国王として冊封されたことで民族意識が芽生えた。また、11世期後半に李聖宗(在位1054-1072)が宦官李常傑に命じて南方の占城に侵攻させ、広治・広平両地方を割譲させたことは、歴代王朝の南進の先駆けとなった。さらに、同時期に宋の神宗が王安石を登用して対外消極策から対外積極策に転じると、1075年には李仁宗(在位1072-1127)がやはり李常傑に命じて水陸両面から予防戦争を仕掛け、欽州・廉州・邕州などを攻略した。その後、宋が反撃に転じて都昇龍に迫ったものの直前で撤退し、1079年には高平・諒山方面の中越国境を有利な条件で画定させたことで、事実上の勝利をおさめ民族意識が高揚した。
 また、李太祖期に宋に倣って皇帝直属の禁軍を編成したものの、当時の人口規模や動員兵力が不明であるとはいえ著しく小規模であった。この原因としては、官僚制度が未熟であったため中央直轄の地方軍を創設することができず、帝位継承時における土着の武装組織との会盟や盟誓や即位後の行幸による権威の誇示で軍事力を動員していたからではないかとの指摘がある。また、これに加えて皇族女性も在郷勢力との婚姻関係を結ぶことで皇帝権の盤石化と地方支配の安定化に寄与しており 、この「政略結婚」も軍事的な動員にも一役買ったと考えられる。また、指揮官に注目すると李常傑に代表される宦官のほか、外戚などが活躍していたようであるが、これは「貴族制の成熟」であって宋でみられたような「官僚制度の成熟」ではない。これらの点について、文官のみならず武官も科挙(武挙)を通じて登用した宋とは大きく異なり、官僚制度が未発達であったことがうかがえる
 文化面においては、李朝では帝室が仏教に熱心で厚く保護した一方、宋の影響で儒教も徐々に重んじられるようになった。そして、1070年には李聖宗によって昇竜城内に孔子を祀るための文廟が建てられ、1075年には官僚登用試験である科挙が李仁宗によって導入された。翌年にはヴェトナム最古の大学となる国子監が文廟に併設され、その門には下馬碑が設けられ皇帝であっても門をくぐる際には下馬しなければならなかった。ここから、国子監が神聖視されていたことがうかがえる。なお、帝室の保護を背景に仏教勢力の影響が強く、儒教だけでなく仏教や道教の教養も問う「三教試」も実施された。しかし、昇龍近郊の紅河デルタにも半独立在地勢力が割拠する状況であり、文人官僚が台頭する素地が整っておらず科挙の実施は完全な不定期であった。12世紀に昇龍周縁部で官僚制的統治が導入され中央の支配下で再編されたが 、これは限定的なものであった。というのも、地方官の任命は基本的に地方首長の本領を安堵したものか皇族や重臣の臨時派遣であり、全国的には非官僚制的な統治が存続していたからである。この点、文治主義を全面的に採用した宋や、両班貴族の台頭を招きつつも文人官僚を重んじた高麗とは大きく異なることとなった。
 そして、儒教的な家族観念や系譜観念が意識され始めたのもこの時代であった。李朝以前は皇帝の嫡長子であっても能力を証明できなければ帝位継承者たりえず、また帝位についても常に簒奪の危険を孕んでいたが、李仁宗以後は嫡長子が幼少であっても帝位を継承するようになった。この点、朝鮮半島の諸王朝が以前から儒教的な系譜観念の影響を受けていたことと相違がある。しかし、これは重篤な問題を引き起こした。というのも、李英宗の没後に李高宗(位1175-1210)が、そしてその没後には李恵宗(位1210-1224)が帝位を継承したが、両者とも国民に重い税と賦役を課す暗愚な皇帝であったため、農民反乱が続発して社会不安が増大することになったためである。
 この結果、1224年に外戚であった陳守度が恵宗を廃して李昭皇(在位1224-1225)を即位させることとなり、さらに翌年に恵宗を自殺に追い込んだうえで従甥の陳煚を李昭皇と結婚させ、李昭皇も廃して太宗(在位1225-1258)として即位させた。ここに陳朝が成立し李朝は滅亡した。

小結

 高麗においては、科挙の導入によって在郷勢力が中央に進出したが、これは中央が構築した官僚制度に豪族を取り込んでいるという点で中央集権化に成功した。また、女真族の侵入への対応に際して禁軍及び地方軍を拡充することができたことからも、両班貴族との合議を基調としながらも官僚国家としての基盤が確立されていたことがうかがえる。一方、本稿で確認したように李朝も宋に倣って科挙を導入したものの、盟誓などの個人的紐帯に基づく関係が主であり、在郷勢力を官僚制度に包摂することができなかった。そのため官僚国家の建設にも失敗し、首都近郊でも半独立の在郷勢力が割拠するような状態であった。
 つまり、北宋は官僚国家の建設と皇帝独裁体制の確立の双方で成功を収めたが、その制度を受容した高麗と李朝大越国は不完全な模倣にとどまった。というのも、官僚国家の建設で一定の成果を上げた一方で皇帝独裁体制の確立には至らず、王と両班貴族の合議を基調とした貴族制的君主制と呼ばれる形態となったからである。また、李朝では建国当初からの軍事力の不足などから文人官僚を派遣して地方を直接支配することができず、各地に半独立在地勢力が割拠する状況が続き官僚国家の建設に失敗した。また在郷勢力の征伐どころか勢力抑制も侭ならず、婚姻政策による同盟関係を基軸とした豪族との連合政権のような形態となった。


追記

 以上の記述は弊学文学部で開講されている東洋史学で提出した期末レポートの一部を加筆修正したものである。宋と李朝大越国の官僚制を比較検討するのに際して、社会経済面などにおいて両者の相違があまりにも激しかったため、補助線として高麗の官僚制を検討することで、より明快にしようと試みた。新奇性を求めたという側面もあるが、三者の比較は先行研究がなく、また情報量の差もあり難航した。
 まず、李朝大越国に関する史資料は、宋で記録された資料を除けば、ほとんど残されていない。これは、官僚制が未発達であったことに起因するものであると思われるが、残されたものもヴェトナム戦争の戦火で滅失してしまったものが少なからずあり、具体的な実像を描き出すことは極めて困難となっている。
 また、中世ヴェトナム史についてのまとまった記述が記された学術書も少ない。最新の研究成果を反映しており、かつまとまった分量の記述がある邦語文献としては、桃木至朗先生の『中世大越国家の成立と変容』を除けば、ほぼ存在しないと言っても過言ではない。そのため、邦語文献については桃木先生の著書や論文にほぼ全面的に依拠する形となってしまったが、英語文献については桃木先生の著作の参考文献表からいくつか読ませていただいた。
 本来であれば、ヴェトナム史研究については仏語文献や中国語文献も参照するべきであろうが、自身の専攻が現代ドイツ政治史であり、中国語はもちろんのことフランス語についても門外漢であるから、いずれも読めていない。いずれ勉強する機会があれば、内容を充実させたいと考えているところである。
 一方、宋や高麗については十分な史資料が残されており、膨大な量の邦語文献も存在しているため、中世大越国とは逆に情報の取捨選択に苦労したところがある。しかしながら、邦語文献では通史を概観する「概説書」が多く、詳細な記述が少なかったという点で苦労があった。そこで、高麗の官僚制については矢木先生の書籍や論文に大変お世話になった。
 なお、高校時代に世界史選択だったということもあり、知識になかったため比較対象とはしなかったが、平安時代末期における日本の官僚制との比較も興味深いものとなると考えている。今年度に同授業を履修される方がいるのであれば、この点から検討が何らかの示唆をもたらすものであろう。
 自身の専門が東洋史学ではないため、研究手法などについては手探りであり、また情報の正確性についても史資料の不在もあり厳密には担保できないものであるが、興味深く読んでいただけたのであれば幸いである。
 万全を期してはいるものの、誤字脱字及び内容の不備についてはお知らせ願いたい。
 

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