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8月の新キャラ

おはようございます!8:55、彼女の家からまっすぐ帰ります。いつもは前後バイトにはさまれていたり、少なくとも次の日はそのままバイトということが多いのですが、ほんと何ヶ月ぶりだろうという感じでただ行ってただ帰ります。もっとも昨日は久々に外で飯でも食おうということで神保町のボンディでカレーを食ってきました。久々に、こちらは少なくとも10ヶ月は間が空いたと思いますが、食べてみるとよりフルーティーな甘さが先にきました。まずすっごく甘くて、徐々にピリッとしたキレの良い辛さが口に充満してきます。それを味わいながら、そうだ前回食べたときもたまたま中辛を選んで、俺はこれがちょうどいいなと強く思ったんだった、すっかり忘れて今回は辛口にしてみようかな、なんて考えていた、と考えていました。まっすぐ帰るのに一番安いのは赤羽から京浜東北線で日暮里まで上り、そこから京成線に乗り換えて津田沼経由で千葉まで行って、最後にまたJR外房線に乗り換えるルートです。ひとりであれば乗り換えが多いことは、少なくとも今回みたいに体に負担がかかる日程でないときには気にならないので、よくこれを使っています。前に使ったのはカフェのバイトを始める前、このバイトを始めてからはうまいことこの東京の拠点への交通費支給を活かして予定を組んでいこうと意識してきたので、行きも帰りもただまっすぐというのはそうそう生まれませんでした。ただ10月末は時給が上がったことや店長が変わったことによるのか、全体として社員以外のシフトがやや削られている傾向を前半のシフトを見た時点では感じ取れていなかったので、出したところはすべて入れるつもりでなめたシフトを提出したところ、このような、皮肉にも?身体を労わる、自己への配慮の象徴する10月にふさわしいフィナーレを演じることとなりました。当然ですが、過ごしてみると悪くありません。お金はあまりもらえませんけど、ここまでの3.4ヶ月で培ってきた節制の技術や心持ちがだんだん体に馴染んできたようで、先月まで専用の予算までそこそこの額用意しようとしていた本の購入もまったくせずにここまできました。髪も最後に切ったのは8月の真ん中です。さすがにまとまりが良いを通り越して、眼鏡をかけると毛先が跳ねてしまうようになってきたのでようやく切り時かとなったタイミングで、11月に突入です。ちょうどいいし、美容院の予約はこれからなのでまだしばらく粘れる気もする。僕の髪はけっこう伸びるのが早いらしくて、ボリュームもあっという間に増えていくので髪が乾きづらくなったり、鏡でみて明らかにもっさりしていると感じたらすぐ切るようにしていて、それがだいたい1ヶ月半ちょっとの周期でした。というかもともとは毎月美容院代がかかるリズムに耐えかねて、1ヶ月空白を作れるようにその周期にしたのですが、だんだんそのリズムに僕の髪の成長も合ってきているように見えて、僕も髪も当たり前のようにそれが理想であり、かつ限界なのだと思い込んでいました。前回切ってもらったのはどこだっけ、十条の昔ながらの商店街のなかにある、ホットペッパービューティで見た写真と比べるといくらか年季が入った内装の、どちらかといえば美容室と呼びたくなるようなお店でした。直前に何を知ったところでまるっとカット代を持っていかれてまでキャンセルすることはないのですが、だんだん寂れた商店街を歩きながら不安になってきて、それまでそういえば見ていなかったGoogleマップでの口コミを見てみました。というか詳細な経路を調べようとGoogleマップで改めて店の位置を確認してみた、という流れだったかもしれません。そうするとカットのレベルが低い、みたいなコメントがやたら目について、おまけに「でもお話しするのは楽しかったです」ということが添えてあるものが多かったのでなんというか、なおさら心配になりました。ほんとにここにあるのかよ、という寂れていて人気のない土地一帯のなかにポツンと小綺麗で目を引く施設があるような景色は何度もこの目でも画面越しにでも見てきましたが、寂れた商店街がちょうど交差するところ、これまで歩いてきた通りにたいして垂直に伸びるもうひとつの通りに突き当たるその接点あたりに、その美容室はあります。突き当たって若干左側にみえる階段を上がっていくと、右側には地元では有名であろう広めで魅力的な喫茶店があり、もしこのあと彼女とラーメンを食べる約束をしていなかったら、いやもともと十条にはきていなかったはずだからそれは置いておいて、ちょこっと立ち寄りたくなる照明や壁の色をしているな、こういうのを雰囲気だとか空気感というのだろうか、ならば僕はもうちょっとどこの何がいいのか言葉にしてみたい、とかなんとか思いながら正面に見えるドアをくぐると、さっき言ったような年季の入った壁やカーテンで仕切られたシャンプー台が見えて、なんとなくまた不安になりました。が、もうやってもらうしかない、それだけだと腹をくくるまでもなく、淡々と時間は流れていきました。美容師の男性とは、大学生時代に経験したバイトの話をしました。彼が一番大変だったのは渋谷のセンター街にあるカラオケ屋で働いていたときで、あそこに来るのは人間ではないとも言っていました。それに対抗できるとしたら、こちらもまた人じゃないような人じゃないといけませんねと言ったら、笑いながらほんとそうでした、と教えてくれました。僕がなんの話をしたか覚えてないな、仙台で居酒屋のバイトをした話はしたはずなのだが、そのまま話が仙台を中心に巡っていったのかもしれない。たしか彼も仙台に居たことがあるとかなんとか、それはまた別の人だったかもしれない。とりあえず僕の印象に残ったのも、彼がもっとも調子よく喋っていたのも渋谷のカラオケ屋の話だった。というかそれ全体が僕の印象に残っていると言えるのか。眠い。さっき乗っていた、このまま津田沼あたりまでは向かってくれるとばかり思っていた電車から乗り換えた。京成高砂行きだった。以前もこういうことがあった。そのときは終点が高砂ではなかった、違うな、あれは千葉方面から日暮里へ向かうときだったか。気がついたら押上についていたから。京成線についてはまだまだ謎が多い。快速に乗ったつもりが各駅停車だったということが何度もあったし、僕は途中で切り替わっているんじゃないかという方向で疑いの目を向けているが、真相を明かす気は特にない。このルートを選ぶときは決まってなにも急いでいないからだ。間違えたらもとの位置まで戻ればいいだけなので、というかそうしないと100円をケチってこのルートを選んでいる意味がなくなってしまう、というか意味がなくなってしまうのはいいのだが100円がなくなってしまうのが嫌なので、時間がかかっても元のルートに戻る。書くことや読むことを進めることができれば、金を時間で買っているような構図にはならない。ただやることも前に進んで、お金もかからないだけだ。僕はそうやって生きていくことを望んでいる。なるべく他人に依存したシステムから身を引きつつ、己の好きなことだけを徹底的に研究していく。そういえば昨日は見るのを控えていたしいたけ占いを今朝読んだ。なんだっけ、安住アナが朝やってるニュース番組、あれで7時過ぎにdボタンを押せば読むことができる、彼女が割と気に入っているらしいゲッターズ飯田の占いを見たときに、ついでに僕の気に入っているしいたけ占いと照らし合わせてみようということになり、更新されているのは知っていたがさっき初めて読んだ。ゲッターズ飯田のほうはあまり覚えていないが、しいたけ占いは今週特にうんうんと頷きながら、そしてニヤニヤ口角を上げながら読んだ記憶がある。細かな文面はこちらも忘れてしまったのだが、「これは全員がやらなくてはいけないことなの?」というのを掘らずにはいられないあなたは、みたいな前置きでまず頷いていたから、あまりその後の展開は重要でなかったのかもしれない。心が軽くなるような、それでいてできる限り細かに、読み手を励まそうとするような懸命さを僕は感じ取って、嬉しかったのだと思う。このしいたけ占いを知ったタイミングはたぶん世間よりだいぶ遅れていて、千葉雅也さんのTwitterでのつぶやきを見て、それも終わっちゃうのかあ、最初は先回りをしたような口ぶりが鼻についたものだが、徐々にその楽しみ方がわかってきたというか、最後には本当にその通りだなあなんて思うこともあって好きだった、という(80パーセント意訳)締めくくりのお別れメッセージから知った。そうしたら2ヶ月前くらいに、いや5月生まれの大学時代の友人を集めて7月に誕生日会を開催したときにはもうあったから3ヶ月ちょっと前か、再開したときからはちょこちょこのぞいている。下半期占いのボリュームはちょっと狂気すら感じるもので、それでいて読んだそばから忘れていくような軽い読み口と、とにかくこちらを励ますことを目的として活力が込められている感じのする、温かで柔和な語り口が心地よかった。8月は僕の物語に新キャラ登場!ということで、お前こんなに面白かったのか、という再発見という可能性も含めて誰かがあなたの前に現れる、という文があったので読んだすぐ後ということもあってその月はずっとソワソワしていた。あれは結局誰だったのだろう、しかし坂口さんは毎日のように、毎作のように僕に創作の新しい楽しさと奥行きそのものを教えてくれるし、千葉さんのツイートには非常に励まされているし、山下澄人さんのおすすめする本、に限らずもので僕がみたものはすべて面白かったし、やばいとは一体なんなのか、やばさはどこからきているのかと答えのなさそうな問いをぐるぐる感じてしまうような遊びを知ることができる。そしてなにより僕も毎日面白くなっている。少なくとも今は、背中に昼の始まりを伝えてくれる、ある種いまこそ一日の始まりであるような感覚を引き起こしてくれる日光を浴びているし、実はちょうど4000字も書き終わったのでこのあとなにしてもいいということもあって、そう思える。今のところ、8月の新キャラは僕なんじゃないかと、あなたの番ですが放送していた時期を境にあまり見なくなったサスペンス考察の手法を用いるわけではないが、考えてみている。だとすればあえて8月を切り取ってそれをいう必要はあるのかと勘ぐってしまうが、不思議なことに今日僕はそれと関係なしに8月に髪を切ったときの話をした。特に僕の新しい一面をみたという話でもないし、どのみちそれを見つけるのは10月末の僕だという気がしないでもないが、関係ないようで、全部関係はあるからな。僕はそういう思考のOSがなぜか初期搭載されていたから、千葉さん、の主な研究対象であったドゥルーズのリゾーム概念にははなから抵抗が全くといっていいほどなくて、それも不思議だった。全部関係あると思えるからこそ、端的な偶然としてものの間にある関係をぶった切ること、ぶったぎれているようにも見ることに訓練が要る。まあこれも僕の特質ではなくて、歴史に紐づいた現代病のようなものなのかもしれない。物語偏重、というか物語というものの捉え方の狭さ。物語とメタ、だけではない。友情努力勝利なんて夢見事だよ、現実はこうだ、だけではない。全ては接続されていて、切断されている、そしてそれも全て生成変化の途中であって、仮固定したそのカット一枚を縁取ってみることでようやく、ものを見ることができる、少なくとも目ではそうだ。とすればやはりというか、8月の新キャラを知るのはもっともっとあとになるのかもしれないな。僕はいつからだってどこからだって、あの時間を切り取ってみることができるし、そうである限りは、というかそれとはまた別個に、そこにしかなかったものは今もそこにある。のかもしれない。

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