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科学教と倫理学

知識をどう扱うかという「倫理」の問題だと思うな。
「科学」や「学問」と名が付くだけで盲信する人がいるけど、科学はその時事実だとされていることであって、後世覆されることは度々ある。
科学だって人間が作ってるものだから、イデオロギーに支配されることもある。だけど神様が言うことが絶対では進歩しないから、資格を持った人間が観察と実証によってその時点での事実を積み上げていく試みが科学だ。
その時点では真実とされていたことが、別の個人が観察実証して覆るということはありうるし、その流動性と過程こそが宗教と一線を画しているところだと思う。

日本では西洋文明が創り上げた学問や科学を信仰するところがあるから、科学とは絶対不変の正義と信じ込むところがある。その科学の研究結果を暗記して知識だけ詰め込んだ自分もまた正義で、あらゆることを「知っている」自分は全知全能の神、みたいな中二病的自己愛の暴走がよく見られる。
その西洋では長らく科学は宗教と共にあったから、「全知全能なのは神だけ、人間が知りうる知識には常に限界がある」という謙虚さがあるように思う。
全知全能にはなれないからこそ、分かった気にならず、真理に近づくために努力するのだ。現実的には慢心して何でも分かった気になるナルシストよりも、厳密で「科学的な」成果が得られるのではないだろうか。

やはりそこには宗教があるからこそ非宗教的になれる、という逆説があるように思う。
それに現実の観察を実証的に積み上げていくだけの科学は基本的に唯物主義だから、人間の尊厳をどう扱うべきか、という倫理は科学では扱い得ないだろう。それはもう宗教や哲学の分野なのである。
日本では宗教や倫理学は当たり前のようになかったことにされる。歴史の知識を暗記しただけで知ったような気になって、結果だけを見て「自分ならもっと上手くやる、あんなこと絶対にしない」と過信するお受験インテリが多い。

ダイゴも過去の動画で「差別なんかする奴らはまともじゃない奴だから」とか宣っていたことがある。「自分には関係無い」「自分ならそんなバカなことする訳がない」という過剰な自己愛こそが問題では?

知識は無くとも人間的には正解な人も沢山いる。
知識を軽視する訳ではないが、知識をどう扱うべきか、といったメタ知識やその知識を人間社会の進歩にどう活かしていけるかという倫理学が、これからの世界では暗記した知識と両輪で必要になると思う。

https://qjweb.jp/journal/56871/

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