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尾崎豊に謝りたい

さだまさしの『縁切り寺』と『雨やどり』をコピーする中学生の尾崎豊の音源を聞いて感じたこと。テキスト自体は三年前に書いたものなのだが、日の目を見ないまま埋もれさせるのは何となく勿体ないと思うのと、新時代を迎えるにあたっての教訓があるように思うことから、若干の修正を加えてサルベージしようと思う。

この音源を聞いていると、素のままの尾崎少年は「反抗のカリスマ」や「十代の教祖」というパブリックイメージとは縁遠いところにいる、ただひたすらに優しい少年だったのではないかということを思わせる。というか、26歳で亡くなるまでその本質的なところは変わっていなかったはずだ。

十代の頃、僕は尾崎豊に一種の「救い」のようなものを求めていた。日々感じる生き辛さや苦悩、世の不条理を代弁してくれる尾崎豊は偉大な存在だった。

気がつけば、僕は30を裕に過ぎて尾崎豊が亡くなった年齢を超えて大人になってしまった(恐ろしいことに、次誕生日を迎えたらアラフォーになってしまう……)。今、この年齢になって尾崎豊に伝えたい言葉は「ごめんなさい」だ。この一言に尽きる。

尾崎豊が駆け抜けた1980年代。

人々は今以上に資本主義を信奉し、その豊かさを存分に享受し、飽くことなく追い求めていた時代だったに違いない。それは同時に、今以上に人間性であったり、尾崎豊が数々の名曲の中で必死で叫び続けていた自由や平和、そして愛といったものがないがしろにされた時代だったのだろうと思う。時代は、確かに豊かさの裏に病理と罪を抱えていた。

この時代に限らず、時代は常に病理と罪と解決すべき課題を持つものだが、それらを解決するのは、本来であれば社会をリードする大人の仕事だ。この時代、1980年代であれば、行き過ぎた経済成長至上主義に誰かが警鐘をならさなければならなかったし、人々はそういった警鐘に耳を貸さなければならなかった。少なくとも僕はそう考えている。

尾崎豊に焦点を充てて言及するなら、彼が必死で求め続けた生きる意味や自由、平和、愛、そういったものに大人は目を背けず、そして恥ずかしがらずに拘り続けるべきだった。大人が拘らないから、尾崎豊が必死で叫ぶしかなかった。僕はそう解釈している…...いや、そう解釈したいのか。

1980年代という時代が犯した失敗は、尾崎豊という一人の優しい少年に、時代が抱える病理と罪と課題を代弁させてしまったことに象徴的に表れている。大人がなすべき仕事をしていれば、尾崎豊は「反抗のカリスマ」にも「10代の教祖」にもなる必要はなかったのかもしれないし、あんなに悲劇的な最期を迎えることもなかったのではないか。そう思えてならない。もっとも、仮に今の時代を尾崎豊が生きていたとしても、彼くらいの天才であれば1980年代と同じく2010年代が抱える時代の病理にいち早く気付いてしまうのだろうけれども…。

「たられば」の話を続けるのはここら辺にしておこう。

さて、時代は間もなく2020年を迎える。
平成も終わり、新時代「令和」を迎える。僕は望まずとも大人になってしまった。かつて大人たちがしてきたように、時代の罪と病理と課題を若い世代に押しつけていないだろうか。負の遺産を残していないだろうか。おそらく意識する、しないに関わらず、僕はかつての大人たちと同じ罪を犯しているのだと思う。

その後ろめたさは日々なんとなく感じているのであるが、このリンク先の尾崎少年の優しい歌声に出会い、その後ろめたさが初めて「ごめんなさい」という言葉になって表れた。

尾崎豊を嘲笑するような大人にだけはなりたくない。

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