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私たちのおばけ

「それきっと、おばけがやったんだよ」

 このフレーズを含んだ会話を、十年とちょっとの間で夫と何度交わしただろう。
 例えば、私が空の醤油のボトルを冷蔵庫に戻してしまっていたとき、例えば、夫の脱いだ靴下がリビングに転がっていたとき。私たちは決まっていたずらっぽい顔でそう言ってきた。それは、喧嘩を好まない私たちにとっての魔法の言葉だった。私たちのなかでおばけは、お茶目で、忘れっぽくて、かわいい存在だったのだ。
 大学生の頃、親に内緒で同棲をはじめたとき、夫がおばけを作った。最初は些細なきっかけから生まれたただの冗談だったのだと思う。でも、私はその冗談をとても気にいった。私も、夫が作ったおばけの存在を認めることにした。そうやって、二人で長い時間をかけておばけを育てていった。おばけはこれまで色んないたずらをしてきた。それは、最初に挙げたようなかわいいものもあれば、台風の折にどこかから看板を飛ばして、家の窓を割ってしまうような、ちょっとシャレにならないようなこともあった。でも、私たちはおばけのことをかわいがっていた。おばけがいるおかげで、私たちは仲良く暮らせるから。
 一年前、夫が仕事を辞めた。私に一切の相談もなく。本人いわく、上司とそりが合わず、そのことでずっと悩んでいたのだという。私はめずらしく、怒りと悲しみを夫にぶつけた。悩んでいるなら、仕事を辞める前にどうして相談をしてくれなかったのか。私たちは夫婦なのに。そんな私を見て、夫は悲しそうな顔で、心配をかけたくなかったと話していた。私は納得ができなかった。何時間も話しあった。大事なことだと思ったから。だが、すでに終わってしまったことに対して、お互いが納得できるような出口は見つけられなかった。対話に疲れ、テーブルを挟んだお互いがうつむいていたとき、夫がポツリとつぶやいた。
「全部、おばけのせいにしようよ」
 長い沈黙に耐えられず、空気を変えたかっただけなのかもしれない。ただ、それを聞いたとき、私のなかのおばけが表情を変えた。

 私は、毎日していた洗濯を三日に一回にした。洗い物も二日に一回にした。なんだか急に面倒になってしまったから。夫は、不満そうだった。でも、私はこう言った。
「おばけが家事なんてやらなくていいってさ」
 夫の目にはっきりと失望の色が見えたが、私は気にしなかった。だって、おばけのせいなのだから。それが理由になるのだから。
 新しい仕事に就いてから、夫は急な出張が多くなった。家を空けるなら、せめて事前に言っておいてほしいと言う私を、夫は鼻で笑った。
「おばけのせいだから、仕方ないだろう」
 私は、納得することにした。なるほど。じゃあ、最近、私の携帯に無言電話がかかってくることも、おばけの仕業なのか。留守電に、女の人の声で「死ね」と入っているのもおばけの仕業なのか。私のメールアドレスが勝手にいろんなアダルトサイトに登録されて、何百通も迷惑メールが届くのも、おばけの仕業なのか。夫は全然それに気づいてないみたいだけれど、全部、おばけの仕業なのか。
もう、おばけは、私たちが付き合いはじめた頃のおばけではなくなっていた。

 今、私のお腹には、赤ちゃんがいる。夫の子ではない。私は、家を出る準備を進めている。離婚届の準備も。夫は全く気づいていない。新しい生活が楽しみだ。私と、おばけと、赤ちゃん、三人での新しい生活が。

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