言葉の定義が変わると、自分が変わる⑤
ファスティングへの取り組みの中で衝撃的な経験だったこと。
それは、『食事』『食べる』『健康』などの、日常で何気なく使っていた言葉の定義が変わったこと。
しかも、芋づる式に定義が変わっていき、定義が変わると目線が変わり、世界が変わり、一周まわって生活スタイルも変わりました。
そして、人生の優先順位すらも変わってきました。
前は、「(ファスティングなんて)そんな意識高いことするなら、もっと仕事も頑張ってよ!😩」みたいな人でした。
今は「体を犠牲にして頑張るほどのことは何もないな」くらいに思う人になりました。
さらに、「体や、体の仕組みって、神さまがくれた奇跡の塊じゃん。その奇跡が追いつかないくらい、体を酷使するのは間違ってるんじゃないか。」とも思うようになりました。
犠牲にした分、ネガティブな気持ちになり、周りに感謝の気持ちも持てない人間になるくらいなら、がんばらない方がいいじゃんって感じです。
前の私は、自信がなく、その不安を補うために、自分を犠牲にして頑張りがちでした。
そんなことをしても、全く何も埋まることはなく、他人にも頑張りを強いたり、うまくいかなければ嘆いていたのですね。
そういう生き方でも、頑張っていればいつかは安寧の日が来ると思っていたのです。
でも、いい年になって😂よくよく考えたら、自己犠牲精神は被害者意識につながっている上に、満たされない気持ちを他人に癒してもらおうとしているわけで、そんな他人を養分にした生き方の先に安寧がある…わけ、無い…って思ったんです。
うまくいっていないときは、全て逆になっている…と気づきました。
安寧が先なんだ。
先に安寧を生み出すことで、直感が働き、余裕があるから、落ち着いて技能を習得できるし、人ともまともに関われて、発展がある。
恐れを煽って奪おうとする罠は、外にも内にもいたるところにある。
大事なものを失わないためには、恐れに飲み込まれず、まず自分で安寧を生み出すところから。
それってつまり、自分を大切にすること。
それは自分の弱さを庇うことじゃなくて、徹底的に自分と対話し、自分にあった生き方を見つけていくこと。
一生見つからないかもしれないからこそ、がんばるならソコ!って思います。
今まで、そういうことを頭でばかり考えていましたが、体を使ったことで、かなりの刺激と変化を実感しました。
体で理解すること大事!😆
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