『愛を読むひと』―罪の基準とは―

本作2回目の視聴。初回は約6年前だった。
大まかなあらすじは覚えていたが、改めて観ると新たな発見に気が付く。
ネタバレも含まれるかもしれないが、自身の感想文として記録する。

主な主題はナチスのホロコーストについて、また戦後ドイツでの罪の意識と基準の乖離にあると考察する。
映画内にて、特別ゼミの講師をしている大学教授が話している下記セリフが印象に残った。

人は言う
“社会を動かすのは道徳だ”と
それは違う
社会を動かしているのは”法”だ

愛を読むひと(字幕版)(2009年) 字幕より

アウシュビッツ収容所の看守はすべて悪なのか、
ユダヤ人大量虐殺に関わっていた人は悪なのか、
大量虐殺を知りながら黙認していたドイツ人は悪なのか。
”道徳”ではすべてを悪と呼ぶかもしれないが、悪人が法廷で裁かれる基準は”法”である。

ただ怯えていただけのドイツ在住者が自責の念を感じることがあっても、法廷においては何も自らの意志によって行ったことではないため法に問われることはない。
「戦争」という国の罪は一体誰が背負うものなのだろうか。

犯してしまった過ちはいつ許されることがあるのだろうか。
もしくは、自分が許せるようになるまでどのくらいの時間が必要なんだろうか。
『愛を読むひと』を通して、20年以上の歳月を経て、それでも許せなかったハンナの気持ちを思い、胸が痛む。



※あらすじや解説については丁寧にまとめられた方がいらっしゃったので、以下リンクよりご確認いただければ幸いです。


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?