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認知症介護小説「その人の世界」vol.25『私に言わせれば』

【まえがき】
今回の物語は、前回の物語(認知症介護小説「その人の世界」vol.24)と全く同じ場面を描きました。主人公は、前回の主人公の隣の席にいた女性です。ふたつの物語を並べて読み比べると、新しく広がる世界があるでしょうか。

【本文】
こういうのが一番困るのよ。

何をきいても返事をしない。せっかく教えているのに、覚える気があるのかないのか分からない。

私、女学校の頃は学級委員だった。人をとりまとめることが多く、部品工場に勤めていた時はパートの女性たちのリーダーを任されていた。会社の親睦会を仕切ったり、ママさんバレーでもキャプテンだった。

人の世話をするのは苦ではない。子どもの頃から6人兄弟の面倒をみてきたし、向いていると思うこともある。だから今の職場でリーダーを頼まれた時も、快く引き受けた。

世の中いろんな人がいることは充分承知している。それでもやっぱり、面倒をみていてどうしても困る人はいる。仕事に対する意欲と責任感が感じられない人。こういうのが一番困る。

「だから、さっき言ったでしょう」

私は隣の席のおばさんに箱の折り方を教えていた。

「四つ折りにしたり、次は開くのよ」

「次は開く……」

指先でつまんだ紙を見つめたまま、隣のおばさんはまた固まってしまった。これでもう何度目だろう。この間も教えたし、今日だってそれと全く同じことを丁寧に教えている。けれどこのおばさんは毎回動きが止まってしまう。ぼんやりしているようにも見える。

「分からないの?」

つい、口調が強くなる。私の教え方にも問題はあるのかもしれないけれど、それなら何か言ってくれないと変えようがない。相手は俯いたまま眉間にしわを寄せている。何か不満があるといった顔だ。

「黙ってたらこっちも分からないでしょう。何か言ってくれないと」

学校の教室ほどの広さの部屋に、ふたつつなげた長方形のテーブルが置いてある。そこで作業する数人の人たちは同じ箱を折っているけれど、ときどきリーダーの私がみてあげないと間違える人がいる。正直なところ、この人だけにかかりきりになっていられない。

「こんな簡単なことが分からないの? 開くってだけなのに」

意識せずともため息が出る。開く、という以外に説明のしようがない。それでも相手は動く気配がない。こういう新人は滅多にいない。どんな場所でも、教えてもらうという姿勢というものがある。

「こういうことは、あまりやったことがなくて……。得意じゃないっていうか、好きじゃないっていうか……」

こちらを見ようともせずに隣のおばさんは声を上ずらせた。

「はあ?」

私はすっかり呆れて、その図々しい姿をまじまじと見た。

「あなた、ここで一番新しいんでしょう? こんなことね、私だってやりたくてやってるわけじゃないのよ。やれと言われているし、他にやることがないからやっているの。ここでこれをやりたくないって言ったら、あとはただぼおっと坐っているだけなのよ」

仕事というのはそういうものだ。何もかも得意なことばかりなんてあり得ないし、やりたいことばかり選べるわけでもない。与えられたことを精一杯やればいいし、やりたくないなら辞めればいい。

相手は下唇を噛んで一点を見つめていた。やはり何も言わない。

「あなたみたいな人がいると、なんだか教えている自分が情けなくなってくるわ。新人のくせに、何も覚えられないで言うことだけは一人前なんだから」

「すみません……」

リーダーの言うことだから一応謝ったという感じの言い方だ。こういう人が全体の輪を乱す。せっかく意欲のある人に影響しないうちに、手を打たなければならない。

「この人、無理だと思うよ」

私が声の音量を上げると、離れた台所でお茶を淹れている男の人は急須を置き、こちらへ歩いてきた。まだ若いけれど私の上司だ。

「どうしました?」

「あのさ」

ここははっきり言わなければ示しがつかない。

「この人、みんなと同じことができないのよ。私が何度教えてもできないし、何が分からないのかきいても返事もしないし。言ったかと思えば、こういうのは好きじゃないとか。そんなのさ、やってる人たちに失礼じゃない。帰らせてあげれば?」

これくらい言わなければ効果がない。この上司はかなり甘いところがある。新人教育は初めが肝心で、ここでしっかり締めておかないと後が大変だ。

上司がおばさんを連れてテーブルを離れた。やれやれ。

「あなたも大変だね」

正面に坐っているおばさんが口を開いた。

「分かってくれる?」

ため息まじりの返事におばさんは頷いた。

「上に立つ人っていうのは、何でも大変なんだよ。でもさ、そのおかげでみんながうまくやれるんだから大したもんだよ」

「本当にそうかね。私はもう疲れたよ」

「そう言わずにさ」

おばさんは折り終わった箱の角を指先で押さえて整えた。

「この世で一番厄介なのは自分じゃないか。それなのに人の面倒をみるなんて、誰にでもできるもんじゃないよ。あの人だって、慣れてくればあなたの言うことが分かるようになる。感謝だってすると思うよ。あたしみたいにさ」

「うん……」

本当にそうだろうか。

「お茶が入りましたよ」

新人のおばさんがお盆を手にして戻ってきた。

「どうぞ」

私の前に湯呑みを置くと、おばさんは他の人たちにも順番に湯呑みを配っていった。

「ふうん」

湯呑みを手にすると、艶やかな黒豆を思わせる香ばしい香りがした。ひと口すすると、ほのかな甘みを含む深い茶色が身体じゅうを満たしていく。

「おいしい……」

思わず口にすると、湯呑みを配り終えた新人のおばさんがはっとこちらを見た。

「本当ですか?」

「うん。すごくおいしい。これ、何のお茶なんだろう」

「実は普通のほうじ茶なんです」

「これが?」

「はい。ほうじ茶をすごく濃く淹れるのが私は好きで」

「へえ、そうなんだ。また淹れてほしいわ。すごくおいしい」

私が再び湯呑みを口に運ぶと、新人のおばさんは、はい、と言ってお盆を胸に抱えた。

「こんなことぐらいしかできなくてすみません」

「そんなことないわよ。私にはできないことだわ」

ぶっきらぼうな私の言い方だったけれど、おばさんは嬉しそうに目尻を下げた。たんぽぽみたいな笑顔だった。

「いいですねえ!」

割り込んできたのは私の上司だった。

「こういうやり取りが僕は大好きなんです!」

誰よりも嬉しそうに若い上司は笑った。ちょうちょと遊ぶコロコロとした子犬みたいに無邪気な人だ。

「あなたさ、私が昔大事に飼ってた犬にすごく似てるのよね」

「僕が? へえーっ。何を飼ってたんですか?」

「ブルドッグ」

「えーっ、それ、喜んでいいんですかぁ?」

「失礼ねえ。撫でまわして、舐めまわして、大事にしてたのよ。やってやろうか?」

「いやあ、それは……」

湯呑みを手に休憩していたみんなが笑った。この雰囲気。このメリハリ。確かにいろんな人がいる。まとめるのは大変だけど、だから私の居場所があるのだろう。ここに。

※この物語は主にデイサービスを舞台にしたフィクションです。

【あとがき】
時々、もの言いが少々厳しいお年寄りに出会うことがあります。その強い口ぶりから、介護職員からは“困った人”と捉えられがちです。けれど私は、そこまで自由に振る舞えるというのは素晴らしいことだと思います。人前で強く発言できるのは、その環境がその方にとってアウェイでないか、あるいは心の中に味方の存在を支えとして持っているということだと私は考えるからです。

介護職員は注意をしたりたしなめたりするためにいるのではなく、コミュニケーションの潤滑油の役割を持っています。それぞれの個性をつなぎ、それぞれの居場所をつくる。それが最大の仕事だと言ってもいいと思うほど、私が大切にしていることです。

悲しみや苦しみ、切なさ、喜び、そしてきらめきは誰もが持ち合わせ、それは認知症であってもなくても同じです。より深い理解のため、物語の力を私は知っています。

※この物語は2017年5月に書かれたものです。

私の作品と出逢ってくださった方が、自分の世界をより愛しく感じられますように。