偶然SCRAP#47: Sturtevantは、ミーム・カルチャーを予測したのか?

(追記:2020年1月1日)
写真、マイノリティ、あと最近のメディアに関わる作品について記事がないかなぁと調べてて見つけたもの。

ミームは、文化的遺伝子みたいな話は聞いたことがある。インターネット・ミームとはニコ動やSNS等の投稿を元ネタにパロディ作ったりとかするやつ。

アーティストのスターテヴァント(1924-2014)は、1999年から2012年まで、つまり75歳から88歳までの間、インターネット上に転がる画像や映像をコラージュしたような作品をつくっていた。またそれを無限ループさせたりした。そうすると、どこからが始まりで、どこまで終わり?となる。オリジナルとは?所有とは?著作権とは?みたいなのと一貫した謎を(多分笑いながら)ぶつけるおばあちゃん。

カッコいいおばあちゃんである。インターネットを始め、新しいテクノロジーは、アーティストをやっぱり刺激する。扱ってる問題は、印刷機が生まれたときから変わらないけど、もはや多くのものがデジタルに溶け出した今、崖の先っぽで踏みとどまるのか?未知なるデジタルの大海に漕ぎ出すのか?ってことを問うているのか、おばあちゃん。

(初投稿:2019年10月30日)
イギリスのアートマガジン「Frieze」に掲載されている展覧会レビューを引用紹介します。

Review /
Sturtevantは、ミーム・カルチャーを予測したのか?
OLIVIAN CHA
18 OCT JUN 2019

Freedman Fitzpatrick [ギャラリー]で公開中のアーティストのつっかえながら進むビデオは、芸術のオリジナル性と流通性に関する伝統的な概念を覆します

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自己啓発本の著者で、アメリカ大統領候補者のMarianne Williamsonは、第二回民主党の公開討論の後で彼女の演説について聞かれた時に、冷静にこう返答しました。「後で言いますね。私が演説のミームを見た後にね」。今日、ミームは、娯楽のネタだけでなく、現実の文化や政治勢力の源泉にもなっていて、しばしば現代アートよりも影響力があります。「Sturtevant: MEMES」という展覧会タイトルにも関わらず、この展覧会は、公開されている16のビデオ作品とより現代的な現象であるインターネット・ミームの間の系統立った関係性については、あまり主張していません。それを踏まえて、Sturtevantは実際、どれが彼女のビデオ作品なのか分からないようにしています。しかし、現在の私たちのメディア時代に関して、これらのあまり目にすることのない作品は、深層にあるミーム的真理の兆候を見せます。すなわち、意味はメッセージの最初の伝達の中に留まるのではなく、メッセージは修正され、無限に再循環された後にしか、意味は生まれないということです。

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Sturtevant, Cut & Run Productions, 2006, video still. Courtesy: the estate of Sturtevant and Freedman Fitzpatrick, Los Angeles/Paris

革新的な生物学者であるRichard Dawkinsが「ミーム」という用語を1976年に造り出してからかなり後、インターネット・ミームが2000年代初めに世に広まった前後の1999年から2012の間に作られたSturtevantのビデオは、明らかにアメリカの情報源から集めており、このアーティストが文化の「messy mass [散らばった集まり]」―漫画、CM、ゲーム番組、リアリティ・ショーや、時々、彼女自身のよりプライベートなスタジオ環境でのビデオ映像―と呼ぶもので特徴づけられています。これらの陳腐なイメージの選択と組み合わせは、審美的に奥深さを持ちうると同時に、技術的には不完全です。ビットカムコーダー(小さなビデオカメラ)やその他の初期段階のテクノロジーからデジタル・ファイルに移された画像の多くは、ピクセル化され、時代錯誤的に古臭くされた数世代も昔のメディアのように見えます。この技術革新の展望に対する強調された蔑視に加えて、Sturtevantのビデオの一貫したローファイな特徴は、このアーティストが純粋なオリジナルコンテンツとしての画像の完璧なコピー、転送、流布に無関心だったことも示唆しています。

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Sturtevant, Dark Threat of Absence, 2002, video still. Courtesy: the estate of Sturtevant and Freedman Fitzpatrick, Los Angeles/Paris

その代わりに、Sturtevantのビデオはガタガタした感じで再生されるのです。映像の長さは27秒から15分のものまであり、わかり易さを狙った直線的な物語調は避けられ、クリップは無限にループしています。ここで展示されている映像群の大半は、碁盤の目のように設置されたデジタル・モニターで再生され、ビデオとビデオの間の区切りも、始まりも終わりもないイメージと音の弁証法的なモンタージュとして読み解かれます。この特別な展示において、Sturtevantの遊び心溢れるタイトル画面の使い方は、上辺だけの連続的な決まりごとをさらに破壊し、文化的な慣習をからかうものでもあります。ビデオの前後、あるいは再生中に出てくるテキストは時々爆発し、タイトルを告げる役目を果たすだけでなく、主に、ビデオは、「not for sale [非売品]」(映像は、第5版)であることを私たちに教えたり、「L. Muzzey」(Sturtevantの娘であり、共同作業者)の功績を称える役目を果たします。さらに言うと、この過剰なテキストのオーバーレイが画像と中身の両方になり始めると、アートマーケットが厳格に「原作者」を認めるのと同じように、私たちは、これらの公式な帰属先である「原作者」の存在を忘れていることに気づきます。

同じように、「Simulacra」(2010)のような作品―睨みつけるようなeagle owl [ワシミミズク]のインターネットから取ってきたビデオには、ぼやけた「iStock」の透かしが入っている―は、私たちに文化的な資産としてのイメージの貨幣価値を思い出させます。Sturtevantの目に余る程の著作権の無視は、所有者のスタンプでイメージを損傷させることによってイメージの流布を抑制するという無益な試みを陥れます。イメージ(そしてミーム)は、無限の再生産とネットワーク化された流通という状態の中で、オリジナルと所有者という問題を無意味なものにしました。

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Sturtevant, Simulacra, 2010, video still. Courtesy: the estate of Sturtevant and Freedman Fitzpatrick, Los Angeles/Paris

「読者を誕生させるとき、作家は自らの死という代償を払わなければならない」と、Roland Barthesは、彼自身の名前を付した1967年の論文で書いている。放棄という感情は、WilliamsonとSturtevantの両者の間で共鳴します。―前者は、ミーム文化という社会システムでの個人的意味の放棄という点で。後者は、「「著作権」とはオリジナルな行為と単一の創造を通して排他的に生み出される」という考えの放棄によって所有と価値というシステムが損なわれるという、よりフーコディアン的な意味で。

展覧会「Sturtevant: MEMES」は、ロサンゼルスのFreedman Fitzpatrickギャラリーで、2019年10月26日まで開催中です。

Main image: Sturtevant, Dumping Down & Dunkin Donut, 2008, video still. Courtesy: the estate of Sturtevant and Freedman Fitzpatrick, Los Angeles/Paris

OLIVIAN CHA
Olivian Cha is a curator and critic based in Los Angeles.

訳:雄手舟瑞

こんにちは