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『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』雲の向こうからいつも月は見ている。塩谷風月の語るまでもない事柄。1

この世のすべてが愛しいなんて
『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』
穂村弘


『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』穂村弘(以下、『手紙魔まみ』)を最初に読んだのは、二〇〇一年のことだったと思う。当時、僕は短歌を始めてまだ二年足らずの初心者で、何も知らないくせに何でもわかっているような、根拠のない自信だけを抱えて短歌と向き合っていた。それでも、長く自由律詩の方ばかり向いていた目を閉じ、定型詩としての短歌を選んだことには、それなりの決意があった。

 そう気負っていた僕にとって『手紙魔まみ』は、僕のイメージしていた短歌というものへの強烈な「破壊者」だった。それを歌集と呼ぶにはあまりにも抵抗が強く、当時の僕はそれをただ「本」と呼んだ。今、読みなおしてみても、これを歌集と認めることには若干の抵抗がある。しかし、こういう不思議で痛々しい言葉たちを「短歌という場」に置いたことで、儚い定型の枠が言葉を包み、そこにはある種の「圧」が発生していて、それがこの言葉たちにひとつの「ちから」を与えている、ということはあると思う。


目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき

 吐息の白さ以外、直接的な言葉を一切使わずに、とても寒い朝(窓の向こうは雪景色かも知れない)の白い景色を、素直に喜んでいる(あるいは、そこに素直ではないトラップがあるのかも知れないが)情景が浮かぶ。息だけがまっしろなのに、その世界全体が白いかのようにイメージが浮かぶ。そしてその景色が室内と確定する要素は何もない、と気づけば、あるいはここは室外で、広い白い景色(雪?)の中で眠り、目覚める、不思議な感覚も広がる。ひらがなに開かれたことで、意味よりもまずやわらかな音として、そして読点はリアルな息づかいとして、弾む言葉の様子を表している。さらに最後を体言止めにしたことで、余韻に流さず、むしろ留められたそこを折り返し地点として、何度も繰り返し読み返させるような感覚がある。


恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の恋人の死

 これを最初読んだとき、三つの解釈を考えた。(考えるより感じるべき歌かも知れないということは別にして)
一、 リレー型…自分を起点としてその恋人、そしてその恋人には自分ではない恋人がもう一人いて(あるいは、その恋人にとって自分は恋人という位置づけではないのかも知れない)、さらにその恋人には別の恋人が、というように、人間関係がどんどん広がっていく形。(ループして最初の恋人に戻ると考えても良いかも知れない)
二、一人の繰り返し型…自分のただ一人の恋人、その唯一の存在を、繰り返し繰り返し語っている形。
三、相互型…自分から見て恋人。そしてその恋人から見て自分は恋人、という二人だけの世界を、キャッチボールのように繰り返し、最後は自分自身の死を見つめている。
書きながら、こういう分析は無意味だとつくづく思う。ここでは、読む側の、繰り返される恋人という言葉の捉え方に微かに動揺する心、そして「死」という言葉でピン留めされ静止する悲しみ、ということだけで充分なのだと思う。


まみの髪、金髪なのは、みとめます。ウサギ抱いてるのは、みとめます。

 読んで感じる、この微かな敗北感は何だろう。金髪、ウサギを無防備に肯定していることで、逆にそれ以外のものは手放さない、という沈黙があるようにも思える。外見と内面、と単純に分けて、髪の色やウサギを抱いているのは他者から見た自分の外側で、内面は覗かせない、という見方も出来るかも知れない。だが僕は、「みとめます」と言う度にその言葉が、自分という存在の内へ内へと沈んでいくような感覚を覚える。


ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。

 すべての対象へ等しく「ハロー」と呼びかけることで、おおまかな夜も、地面の霜柱も、目の前のカップヌードルの中の海老たち(ここだけ照明が当たっているかのように明るい)も、自分とは等しい距離になる。あるいは、距離自体が無意味になる。それぞれの「ハロー」のあとの一字空けは、静かな静止点として働き、それぞれの対象への微かな距離感を浮かびあがらせる。ひょっとしたら、それは対象を持て余している自分への、戸惑いかも知れない。


水準器。あの中に入れられる水はすごいね、水の運命として

こういう視点と飛躍。ありきたりに目にするものを、一瞬で別の視点、別の物体として再生誕させるのは、すごいことだ。その支えとして句読点は完全に機能しているし、倒置の必然性も、僕ごときが賢しらに語ることではないが、とにかく「すごい」としか言いようがなく、だらだらと蛇足を書くしかなかった。


手紙かいてすごくよかったね。ほむがいない世界でなくて。まみよかったですね。

「ほむがいる世界でよかった」ではなく「ほむがいない世界でなくてよかった」という表現。単なる肯定、手放しの喜びではない。「ほむがいない世界」をはっきり提示することで、手紙は、一瞬のうちに行き場をなくし宙に浮く。それへの恐怖が微かに滲む。それは、そこに在るものを失った喪失感ではなく、最初から無いもの、出会えないものへの無防備な恐れだ。この歌に限らず、この本の底に常にあるのは、明るい肯定の奥の暗がり、肯定の反対語はここでは否定ではなく、常に恐怖だと思う。


「凍る、燃える、凍る、燃える」と占いの花びら毟る宇宙飛行士

 宇宙の温度はおよそマイナス二七〇度らしい。宇宙飛行士が船外活動をするとき、彼らの防護服の外側には一瞬ですべてが凍る世界が広がっている。そして、宇宙から地球へ帰還するとき、宇宙船は断熱圧縮により燃え上がる。「凍る、燃える」は、呑気な占いの姿をしているが、なんらかの切迫した理由で安全な船から脱出するしかなくなった宇宙飛行士の、死という自分の結末への究極の二者択一なのかも知れない。そしてこの歌が「まみ」の世界の中に置かれることによって、宇宙飛行士は、「まみ」自身を表すことになる。脱出が救いではなく、絶望である世界。それへの切迫した恐怖。どういう死に方をするか選べる(それも選択肢はふたつしかない)というだけで、死という結末(それが本人の望んだ結末だとしても)からは逃げられない未来。


おやすみなさい。これはおやすみなさいからはじまる真夜中の手紙です

 短歌の枠から完全に離れた美しい一行詩。『手紙魔まみ』は短歌の枠を嵌めたもの、まったく自由なものが散りばめられている。一日の終了を表す「おやすみなさい」。そこから始まるのは夢だろうか。あるいは「おやすみなさい」のひと言から満ち溢れてくる思い、その言葉の始まりか。


冬。どちらかといえば現実の地図のほうが美しいということ

これは、句切れは完全に自由だが、全体は三十一文字に収まっている。「冬。」と初句をピンで留めたように静止させ、そこから下へ、冷気が降りていくように冬が染み込んでいく。現実の地図のほう、という言葉の奥には、現実ではない空想の(あるいは夢の)地図がある。一般的には、現実逃避して、厳しい現実より夢のほうが美しい、という構図になりそうだが、ここでは逆である。ただ、美しいの反語は醜いということになるが、ここではそんなに強い反対の位置ではない。「どちらかといえば」という言葉があることで、ふたつの地図の距離はとても近く、淡い。どちらも美しいが、どちらかを選ぶとなったら現実の方、ということだろう。そこには、現実のわずかな優位を認める「微かな痛み」がある。と言うより、その痛みがあるからこそ、現実の方が美しいと感じるのかも知れない。そして、地図。その名前の通り、地理的な意味での地図かも知れないし、ひょっとしたら人生の地図というような、過去と未来に開いた地図かも知れない。

 ただ、ここまでの分析をすべてくつがえしてしまうが、この『手紙魔まみ』という世界は、全体的に「痛み」を内在している。それはひりひりとする痛みであったり、切り裂かれるような(あるいは、切り裂いたような)痛みであったり様々ではあるが、傷を受け痛みを受けているのは、身体的でも精神的でもなくもっと奥深いもの。「まみ」の「たましい」である。その痛みを包むように、半分現実で半分ファンタジーのような、とても曖昧な世界に浮遊している(しかし現実は硬いアスファルトのように常にその足元にあり続ける)。そこでは夢も現実も等しく痛みなのだ。そのどちらに対しても不思議に明るい絶望(暗闇や混沌すら突き抜けた奥底で、絶望はやわらかく輝くのかも知れない)のようなものがあり、それを受け入れて生きる(そして時に血を吐くように拒絶する)「まみ」がいる。その「まみ」から見た世界では、「美しい」とは、微かな微笑みであり、また、あきらめでもあるのではないか。


なんという無責任なまみなんだろう この世のすべてが愛しいなんて

「無責任」という言葉には、自分を追い詰める重さと、それとは真逆な羽毛のような軽さが並存している。ひらがなの「まみ」は記号となって、ひらがなに開かれた文体の中に溶け込み、とても儚い。下句を淡々とした呟きと読むか、吐き捨てるような叫びと取るか。そのどちらでもあり、どちらでもないのか。ただ、一字空けのあとのこの下句が現れた瞬間、それは独立して生命を持って息づき、上句は淡く溶けて消失していくような感覚がある。そして、おそらくこの下句

 この世のすべてが愛しいなんて

こそが、この本の中で様々に表現されてきた「まみ」、その、存在そのものの、結晶なのだろうと思う。

■2020年8月2日 塩谷風月 記


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