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本を買うまでのはなし 西荻窪・音羽館

 80年代の文芸雑誌を読んでいたら、電車を乗り過ごしていて隣駅に着いた。台風が過ぎたのか、向かいの座席を光が切り取っていた。プラットホームのベンチに座っていると、雨がまたぶり返してきて、しかし西荻窪駅に着くころにはやんでいた。喫茶店を出たときも変わらず降っておらず、テーブルに掛けた傘を忘れそうになったが、ちょうど目の前を、人の手にぶらさがった傘が通っていって、自分の手に傘がないことに気がついた。

 神戸から来た友人と、まず今野書店に行く。買いたい本を明確に頭のなかに持って本屋に行くことはまずない。まずない、とすれば、稀にあるわけで、昨日はその稀だった。西荻のほうへ向かう前に、家から近い上野アトレの明正堂に、「A子さんの恋人」を求めていった。2巻まで読んで、一週間まって3巻を買いに行こうと上野アトレ。3巻だけなかった。もし、求めていたのが漫画ではなくて、文芸書や小説だったなら、なかったことの埋め合わせに他を買うのだが、漫画には詳しくなくて、多数の漫画があるのにそれらには手が出ない、というよりも手が出せない。明正堂にはもちろん、漫画以外の本も置いてあるが、ここに来る前に池之端の古本屋で2冊買っていたから、他のコーナーには足が向かなかった。階段を下って、今野書店の地下へ。特集コーナーが先々週に来た時から変わっていた。「ここは今から倫理です」が以前は並べられていた。通信料の安さにおびき寄せられて楽天モバイルにしてしまって、電波がところによっては微弱だから、地下では検索できず、「A子さんの恋人」がどこの出版社から出ているのか分からない。棚を行ったり来たりする。店員の人に聞けばいいものを、同じ年くらいの男性のひとが店員で恥ずかしくて聞けない。店員のひとがいると何か緊張してしまうところがある、買うのか買わないのか見られているのではないかという。落ち着く本屋を想像する、店員がいなくて、客が何人かいる。置いてある本の目録があり、目録を見れば大体の本の位置が分かるというような。と、探していたらあった。飲みながら読もう。

 道を曲がる目印は、洒落た感じの酒屋。洒落ているから彼ら自身は酒屋とは称さないのだろうが、酒を扱っているから私のなかでは酒屋である。まがると看板が見えてきて、雨がやんでいたから店員のひとが本棚にかけた雨よけの透明カバーを外していた。1mくらい手前から均一の本棚を見る。すこし離れて本棚を見るほうが、棚に頭を寄せて見るよりも一望の度合いが増して、どこに何の本があるのかを知れてよいと、棚から少し距離を置いて見るようになったのは谷中の古書木菟のときが初めてだった。買わないまでも背表紙を見るだけで、異なるものに触れる気分になる。ミステリー小説は読んだことがほとんどないが、背表紙を見ただけでも読んだと言えるのではないかと思う。背表紙を見る空間と、見たうえで手に取る空間と、私の中ではわかれている。しかし、それが崩れることもある。前までは背表紙を見るだけだったのに、何となく気になって本を手に取る。本についての本などが一つの例だ。本を読んで本のことを知るなんて狂っているなと思ったこともあったが、本そのものに愛着を覚えるようになるとその狂っている側に回っていた。今日の買いにはためらいがなかった、古本屋のアルバイトの先輩が、これ読むと古本屋って仕事が好きになるかも、と言っていた本が面をこちらに向けて並べられていた。1930年代に自分で活字を組み、印刷をして、好きな詩集を刊行していたという出版社ボン書店の記録、「ボン書店の幻」というちくま文庫から出ている文庫本だった。ページに目を落としてささっと目を配っていると、書店主だろうか若い男性の写真があった。家に帰るまでの電車でそれを探していたが、いまだ見つかっていない。あの写真は幻だったのだろうか。

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