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ベイトソンの生きた世界観⑤        学習Ⅲと自己実現との相違点

 この「ベイトソンの生きた世界観」は2月18日からの連載です。ここからは前回(2023.3.1)の 続きです。

 バーマンはサイバネティクスを取り入れたベイトソンの思想を、環境への働きかけも含めて次のように具体的にまとめて書いている。長い引用になるがそのまま紹介したい。

 ベイトソンの言う<精神>は具体的であり、その諸特徴を明確に期日しうるものである。ベイトソンは原初的な知をそのまま復活させようとしているのではなく、自意識的な一体化[ミメーシス]を唱えているのである。
 サイバネティクス的説明の核心にあるのは、関係こそ現実の本質であるという考え方である。デカルト的パラダイムにおいてはまったく無視されているこの考え方が、原初的思考にすでに先取りされていることは注目してよい。伝統的文化にはトーテミズムや自然崇拝などの慣習を通して、循環性というサイバネティクスの概念を直観的に把握していた。それによって環境を維持し保護することができたのだ。我々もまた、ベイトソンのモデルに基づいて我々のまわりにあるさまざまな下位<精神>の相互関係に思いをめぐらせれば、エリー湖の汚染も防ぎうるだろう。湖の汚染からどんな連鎖反応が生じるか、一目瞭然になるはずだからだ。そうすれば、全面的に一体化[ミメーシス]に回帰せずとも、全体論に基づく生気の行動が可能になるだろう。ベイトソンの枠組みに従えば、原初的意識のように関係の網のなかに単に没入するのではなく、関係の網に心を集中することができる。その結果、原初的な知、特に<精神>をめぐる知が美的認識という形でよみがえり、技巧的[アートフル]な(芸術的な[アーティスティック])科学(世界についての知)を我々は手にすることができるのではないだろうか。一体化[ミメーシス]と分析の両方を手に入れ、それらが「ふたつの文化」の分裂を生むのではなく、たがいに補強しあうようにならないだろうか。人間は環境と(環境だけでなく、人間がかかわり合うすべてのものと)一体化的な関係を持ってはじめて、現実に対する真の洞察が得られるのであり、そうやって得た洞察が分析的理解の中心となるのである。こうして事実と価値が合体する。<精神>とは価値であると同時に分析のひとつの方法であることが明らかになるのだ。

モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』より

  ベントソンがいうように「原初的意識のように関係の網のなかに単に没入するのではなく、関係の網に心を集中すること」を行いたい。それが「一体化[ミメーシス]と分析の両方を手に入れ、」「分裂を生むのではなく、たがいに補強しあ」う方向へと向かわせてくれる。

 そして、環境思想のディープ・エコロジーでは「自己実現」がキーワードとして出てきた。そこでバーマンは、ベイトソンの唱える「学習Ⅲ」にふれながら、自己実現との相違点について指摘している。

   学習Ⅲと伝統的な自己実現との間には重要な相違点がある。つまりベイトソンの言う学習Ⅲとは、単に個人レベルでの忘我的ヴィジョンを得ることだけではない(たとえば  N・O・ブラウンの場合はそうである)。それは、人と人とがつながった共同体的な生き方を追究する上での、必要不可欠の部分でもあるのだ。たとえば、アルコール中毒者更生会(AA)をめぐるベイトソンの記述を思い出してみよう。中毒患者が最終的に我が身を委ねるべき「より高次の力」とは、単に「神」や「無意識」だけを意味するものではなく、自分以外のAAのメンバーたちも入っているのである。患者は自分を、メンバーたちの社会的現実の一部分にし、彼らに共通の苦闘の一部分にするのだ。どこでどのように<精神>を見出すにしても、<精神>はつねに「部分同士が内部で結びあわさった、社会システム全体、この惑星のエコロジー全体に内在している」のである。

モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』より

    今日もまた、バーマンの『デカルトからベイトソンへ』の引用ばかりでしたが、バーマンの言葉を借りて私が伝えたいことをお届けしました。私たちは「部分同士」かもしれません。でも、つねに「内部で結びあわさった、社会システム全体、この惑星のエコロジー全体に内在している」ことをいっしょに感じられたらうれしいです。


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