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民主主義か?ポピュリズムか?【『名古屋発 どえりゃあ革命!』を読んで】

はじめに

 名古屋市長(2021年現在)である河村たかし氏の『名古屋発どえりゃあ革命!』(KKベストセラーズ、2011年)の感想を述べる。

 本書は著者である河村氏が、2010年に行った名古屋市議会の解散を請求するリコール運動についての実体験を中心に、自身の民主主義や地方自治に関する考えを綴ったものである。加えて、ジャーナリストの関口威人氏のコラム、愛知県知事の大村秀章氏や大阪府知事(当時)の橋下徹氏との対談も収録されている。


ポピュリズムとは何か

 本書を読んで最も考えるべきであると感じた事柄は、民主主義とポピュリズムの関係である。まず、いったん本書の内容から離れて、ポピュリズムとは何かということを考えたい。

 ポピュリズムとは一般に、特定の層ではなく幅広い層に訴え、「人民」の立場からエスタブリッシュメントを批判する政治手法のことを指すことが多い。それを単に「人民主義」と訳すこともあれば、否定的な意味合いを込めて「大衆迎合主義」ということもある。

 民主主義はそもそも、「人民の人民による人民のための政治」という言葉に表現されるように、国民(県民や市民)の利益になるように(代議制の場合は)代表者を選出して、制度を決めさせる、といったいわば自己統治のシステムとして記述できる。とすると民主主義と先述したポピュリズムは、あながち別の物であると言い切れないのではないか。民主主義は突き詰めるとポピュリズムになると主張する者もいる。

 このように考えていくと、エスタブリッシュメント、既得権益の存在が鍵になると思われる。というのも、「「人民」の立場からエスタブリッシュメントを批判する」という手法が成功するのは、当然、既得権益を握っている人間がいるからということになる。また人民の代表が既得権益を打開することが(多くの場合そうであると考えられるが)人民のためになれば、民主主義の理念に沿っていることになりそうである。このように、民主主義的な政治を実現しようとするなかで、既得権益が存在する場合に、ポピュリズムが発現するといえる。

 ポピュリズムは民主主義が堕落した形である、ということはよくいわれるが、一方で、既得権益があって、それを打ち崩すことが人民の利益になるのであれば、十分に民主主義の手段として選ばれうるのである。


「既得権益vs.庶民」の構図

 案の定、筆者は自身が民主主義を体現していることをアピールした。

ワシがやりたいのは名古屋で本物の民主主義を芽生えさせることだ。正直な話、日本というのは民主主義国家じゃありゃあせん。(p.93)

 そして、自身が参加したリコール活動についても以下のような評価をした。

今夏の名古屋はどえりゃあ暑かった。千人以上もの人が熱中症で病院に搬送されたそうで、昨年の倍以上だったという。そんな炎天下、昔お姉さんだったご婦人やら、昔兄ちゃんだった紳士たちが額に汗を流して署名を集めてくれる。受任者のみなさんも一軒一軒を回って協力を呼びかける。そういう姿を見て、これこそが本当の民主主義だと感じたものだ。(p.41-42)

 こういった「草の根」の運動を民主主義であると評価する一方で、既得権益を持つ勢力として議会・役所・メディアが批判された。

実は、日本は財政危機どころか金融機関にはジャブジャブとカネが余っとる「貯蓄過剰」国なのだ。そんなバカなと思われるかもしれんが、破綻寸前だという割にはちっとも長期金利が上がらんのが、その動かぬ証拠なのだ。じゃあ、なんでそんな大事な話を国民に教えず、えらい議員のみなさんたちはせっせと増税に励むのか。はっきり言ってしまおう。それは、税金で贅沢な暮らしをしたいためだ。(p.29)
では、なんで「ウォンツ」の時代になったら官僚が何してもうまくいかんようになったんか。答えは簡単だ。事業を立案計画するような高級官僚は税金でのうのうと暮らしとって、庶民の暮らしがわからんからだ。普通の国民が何を求めとるのかわかりゃあせん。だで、普通の国民のみなさんの手元に、お金も、ものごとを決める権限も戻せという話。わかりやすいでしょう?(p.181)
一方で財務省は、マスコミや議員には「財政危機です。国債の未達すら起こりかねない状況です。早期の増税が必要です」と言う。ウソなんですよ。国会議員になった連中いうのは、そこらへんのことが勉強不足ですぐダマされる。マスコミは財務省と一緒になってあおり立てる。マスコミはなんでそんなトロいこと言ってるかいうと、マスコミで出世するには、財務省の財政研究会に入らないかんのです。そこに入ると「国債はいかんで税金に変えないかん。増税もせないかん」という洗脳を受ける。(p.188-189)

 このように、エスタブリッシュメント批判し、対置する「庶民」の側に自らを位置付けることで民主主義としての正当性を主張するのが、著者の手法である。これはまさにポピュリズムの定義にも当てはまっている。関口のコラムでも「「勧善懲悪」を演出」と表現されるほどである。ただし、役人やメディアに関しては、既得権益を享受していることに関する説明が議会に比べたら少なく、説得力に欠けるところがあった。

 既得権益の打破とそれによる減税、さらに平行した社会保障など、掲げた公約(ちなみに2021年の選挙でも著者は当選した)が実現していけば、市民の利益になることは間違いない。とはいえ、それとは別にさらに抽象的な次元の議論として、著者のいう「民主主義」が一般的な定義の民主主義とは少しずれているような気もしたため、民主主義とは何かをはじめに論じてほしかったとも思う。


「庶民の味方」の表現

 これまで見てきたとおり、本書では著者は、自らが「庶民」の側に立っていることを強調した

これも何度も言うように「庶民の時代」が来るとしか思えんのよ。庶民のみなさん一人ひとりが生き生きと働き、世の中のこと、地域のことについては、自分たちで考え、自分たちで声を上げ、自分たちのことは自分たちで決めるような時代。そして、政治はそれをサポートする役目をすればええ。(p.200)

 そして、そもそも、お気づきの通り、本書は活字であるにもかかわらず、名古屋弁の発声に基いて書かれている。著者は、誇張にもみえる名古屋弁を普段から話していることで有名であるが、これも親近感を沸かせ、「庶民の味方」であることを演出しようとしているのではないかと思ってしまう。それにしても、本の中で文字として表現していたのは驚いた。

 2021年8月、東京オリンピックソフトボールで金メダルを獲得した後藤希友選手が、名古屋市役所を表敬訪問した際、河村氏が後藤選手の金メダルを噛むという出来事があった。それに対して多くの批判が寄せられ、市役所には多数の苦情が殺到したそうである。これまでの河村氏の様子や本書の書き(話し?)ぶりから推測するに、今回の行動も愛情や親しみの表現として行ったものであろう。ところが、市民の利益の代表を標榜するポピュリズムであるならば、政権の安定のためにも「炎上」するようなことはしないというのが鉄則であると思われる。ウケると思ってやったがひどく非難された、という、河村氏の世間の認識に対するズレは、「庶民の代表」を演出してきた政治家であるにもかかわらず、という点でも致命的であるといえよう。

 いくら「庶民の味方」といったとしても、著者に強く賛同しない者はいるはずである。それは、本書で語られた議会勢力だけに限ったことではない。そういったの人間の支持をどのように取り込んでいくかが、残りの任期の政権運営に関わってきそうである(私はまずはキャッシュレスポイント還元の実現を期待している)。


おわりに

 個性的なキャラクターと派手な言動で何かと話題になる著者であるが、政治家としての信念は堅固なものがあり、それはポピュリズムともいえるような、既得権益の打破と庶民の利益を追求する政治に繋がっていた。

 活字が話し言葉で名古屋弁であったことについて、正直読みにくいなと思ったことはあったが、狙ってなのか天然なのか、こうして多くの市民の支持を集めてきたのであろうなということが感覚的にうかがえた。これからの名古屋市政の動向に注目したい。

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