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自分が”今を生きている意味”について。【社不のつんどる紀行】#1

学生時代に毎週のように病んでいた時も、社会区分的に大人の扱いなのに社会に適合できずにたくさんの負い目を感じている今でも、脳内の議題に上がって来るテーマがある。


それが「私は今なぜ生きているのか」という問いについて。


明確な答えは誰も知らないし、この世を創り上げたであろう神様に尋ねることもできない。もしかしたら三大宗教などを信仰していくとその答えが見つかるのかもしれないが、私は日本の多宗教文化にならっているのできっと叶わない。

明確な答えがない分、病んだ際のネガティブシンキングが長期化してしまういい材料にもなってしまうからこそ、少し紐解きやすくしたいよねと思ったのでキーボードに指を運び出した。

自分自身も中学・高校の時に悩みに悩んだ問題。もちろん答えは持ち合わせていないけれど、そのことについて深く悩まなくなるような”大まかな答え”はこの数年でなんとか手に入れることができたので今悩んでいる方の手助けになればいいかなと思います。


若い内の人生設計なんて”絵空事”である。


※これは社会不適合者による一意見や考えなので、人生設計をしっかり実現できている方がいれば素直に尊敬の念を送ります。誇れるレベルだと思うから。

幼稚園・小学校・中学校での定番の枠であろう「将来の夢」であったり、少し成長してくると「人生設計図」とかを書く機会がおそらくあったはず。

将来はこんなことをする人になりたいな
〇〇歳までにいい人を見つけて結婚したいな
〇〇な一軒家やマンションに住みたいな

幼少年期であれば脳内で描いた理想を持って書くだけだったはずの将来の夢や人生設計。しかし青年期に入ってくるとその中にだんだんと「現実的な思考」がやって来る。

自分はどの高校・大学に進学したいか、なぜその高校・大学にに行きたいのか。と脳内でぼんやりと描いていた目標に対してしっかりとした理由を持ち出すようになる大切な時期。

この中学生辺りから自分は「かつて描いた夢や理想と現実のギャップ」に対して自己否定であったり強いコンプレックスを抱くようになって来まして。

中学時代はまだレールをギリギリ戻せると思っていた。高校生で頑張ればいいやって高を括っていたのだが、しかし学業を疎かにしていた結果Fラン高校に進学した私は綺麗に朱に交わって赤くなってしまった。でも実際は自己評価が高すぎただけで元から赤色であった可能性は否めない。このあたりで自分が抱いていた理想は完全に消え去りました。


この時の私は「いやぁ……人生終わったな……。齢17にして人生が詰んでしまった……。」と好きな事で現実逃避をしながらも、まだまだ続くであろう人生という物語の序盤も序盤で想定外のルートに到着してしまったことを実感していく。

でも・・・まだ生きてるんですよね。
不思議な事に命を絶ってないんですよ。

まぁこんなように幼少・青年期の人生設計を盛大にミスった人間でもとりあえずなんかこの世に存在を許されているので、自分と似たような境遇の方であればそこまで落ち込まなくていいよって伝えたいし、人ってほんの少しでも光があれば生きれるんだなとつくづく思います。


「生きるか」というより「死にたくないか」


”なぜ今、生きているのか”の問いが一気に楽になると思うのがコレだと自分自身は考えている。理由は「生きる理由」を考えるにあたって難しいことが2つあるから。

① 生きる理由は大まかなものになりやすい
② メンタル面の状況で逆効果になりやすい


① 生きる理由は大まかなものが多い


何か自らに使命を課しながら日々を生きている人はすごい人。たくましい心があるのでぜひ誇ってください。しかし何も考えずに日々を生きている私のような人間では生きる理由を考える時に「生きる理由=自分が死ぬとどうなるか」という等式を立てて自分は考えます。

・きっと周りの家族が悲しんでしまう
・葬式の費用とかかかるだろうしな
・親は色々と責めてしまうのかな

と、先ほどの人生設計のようにふんわりとしたものばかり。だって死んでないから何もわからないし、自らがその境遇を知れるような状況は流石に想像したくない。

これ!というような明確なものって生み出せないような気がしています。もしなにか明確ないい生きる理由をお持ちの方はコメントとかしてくれるとありがたいです。


② メンタル面の状況で逆効果になる


このような事を考えているシチュエーションの多くは「病んでいる時」だと考えている。だって日常生活で考える機会なんてよほど存在しない問いだから。自らがネガティブな状態であるから生まれる問いだと思っているからこそ、漠然的な不安だけが大挙し弱った心を蝕んでいきます。

「なんでこんなゴミクズが生きているのか」「社会に染まらないことは恥である」「このザマで自分は天才とか言うのヤバいよ?」と当時の病み思考を自分で書いていてブーメランのように言葉のナイフがグッサグサ刺さっているのでこの辺にしつつ、明確に自信をもって生きる理由が言えるような答えがただでさえ出づらいのに、二重の力によって生まれにくくなっていると私は思う。


でも「やりたいこと」は出てきやすい


生きる理由はまるで出てこない、もし出てきても漠然とした自らの解答を糧にこの先の日々を頑張れるかと言われれば頑張れない。


では逆に今死にたくない理由は何だろうか。


これに関しては先ほどのような大きな答えは必要ない。どんな些細なことでも自分が興味あることだから日々を頑張る活力になる魔法の力がある。


・このアニメは最後まで全部見たいな〜
・ゲームの新イベントやりたいな〜
・好きなアーティストのライブ見たい!
・仲良い人とまだ定期的に遊びたいな〜


このレベルでも今まだ生きていたい理由としては非常に十分なんですよ。だって自分が自分の意志を持ってやりたいことなわけだから。不安な状況やメンタルであるときは「大丈夫だってなんとかなるよ」という曖昧な言葉よりも、好きな事を列挙してもらって気を紛らわせつつその好きな事をまたするために「少し頑張ってみない?」と言ってみると良いと思う。


何かしら「好き」を持っておくといい。


社会不適合者のまま大人になってしまった私が、なんだかんだ今日まで生きてこれたのには前述した「まだ死にたくない理由」が何十個もあるのと、根っからの自分の性格が影響してると考えているんですよね。それが「色んなことに手を出す性格」です。

なので人と何か喋ったり共通の話題を探すのにあまり苦労することがなく、現役時代の新庄剛志選手レベルにはトークの守備範囲が広くなっている。

好きな事柄やジャンルが多すぎるため「なんとなくコレやりたいな・・・」が尽きることなく今日まで過ごしてきているので、メンタルが落ち込んでいてもとりあえず生きておこうみたいには思えるというかなんというか。そうやって生きながらえてきました。


でも、好きなことが1つか2つの場合だと何か不都合なことが起きた場合に心の拠り所が減って不安になってしまったり、残っている好きに対して執着が発生してしまうケースも往々としてあるわけです。

自分の場合だと
・やっていたゲームが突然サービス終了
(スマホゲームで定期的に見られる事象)
・反感を買う人がきて楽しくなくなった
(スポーツや格闘技系であったりする)
・自分の上達が止まってしまって飽きた
(個人競技系の遊びをしているとある)
大体この辺りでしょうか。

だからこそ自分としては「趣味であったり自分が好きだなと思うことやモノをたくさん持ってみてください」というアドバイスを贈ります。

そんなこと言われてもそんなにたくさん好きなものなんて無いという人もいるかもしれませんが、そのような人は自分の1日を振り返ってみてください。毎日のように見ているYouTuberさんやTikTokerさんはいませんか?毎日欠かさずやっていたり、興味関心を持っているテーマジャンルなどはありませんか?

日々過ごしていると中々気づけないことも多いですが、無意識のうちにインターネットという空間を使って僕たちはさまざまなコンテンツと接触しています。もちろんこのnoteだってそう。ここまで読んでくれてありがとうございます。


なにか苦しい瞬間や停滞している状況の時は、自分が好きなことを思い出すために自身の1日をちょっとだけ意識してみて過ごしてみると良いのかな・・・と社会不適合者のごみさんは思っています。


小さなことでも幸せが見つかりますように。

よく喋るしゃかいごみ。でした。

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