#64 五・一五事件と二・二六事件

1932年5月15日に起きた五・一五事件と1936年2月26日に起きた二・二六事件。どちらも名前が似ている上に、軍部によるクーデターであり、時代も近いことから混同しやすい。受験生の悩みの種である。


表にしてもまだまだ分かりづらい。簡単に言うと、五・一五事件は軍部が政党政治に対して起こしたクーデターであり、二・二六事件は陸軍の内部抗争である。皇道派とは、今までの政治の在り方を根本的に覆し、天皇中心の軍事政権をつくろうと考えるグループで、統制派とは政府と財閥の結びつきを維持しながら軍部が実験を握ろうと考えるグループである。

規模の面でも大きな違いがある。五・一五事件は9人の青年将校が起こした事件であり、計画や実行能力も稚拙であったとされており、犬養首相を殺害した以外はほとんど成果をあげていない。それに対し、二・二六事件は将校が中心となって陸軍1500人を動員し、一時は霞が関周辺を制圧した大規模なクーデターである。率いられていた軍人たちの中には、目的を知らされないまま上官の命令に従っていただけの者も多くいたらしい。

五・一五事件は現役の首相が殺害されているのに対して、二・二六事件は大臣である(ただしどちらも首相経験者)。しかし、実際は首相官邸で岡田啓介首相も襲撃されていた。岡田首相は襲ってきた兵士が違う人物を殺害して首相と勘違いしたこと、クローゼット内にうまく隠れられたことなどから一命をとりとめているが、まぎれもなく首相殺害も目的としたクーデターだった。

二・二六事件の一報を受けた昭和天皇は激怒し、陸軍に反乱の鎮圧を命じるが、対立していたとはいえ同士討ちとなる陸軍の反応は鈍かった。そこで昭和天皇は「自ら近衛兵を率いて鎮圧する」と憤ったことで陸軍が動く。そもそも天皇中心の政治を目指すクーデターだったにもかかわらず、天皇自らそれを否定するという状況に、反乱を起こした兵士たちは戦意喪失して降伏。反乱軍を率いた将校ら17名は後に処刑された。
この後、昭和天皇の重いとは裏腹に、反乱を鎮圧する形となった軍部の発言力が一層強くなり、日本は軍国主義の道を歩んでいくことになった。

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