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#321「日本三大怨霊」とは誰のこと?

呪術廻戦でも取り上げられる呪術全盛の平安時代。
現在でも「日本三大怨霊」として恐れられている人物がいた。
菅原道真、崇徳上皇、平将門の3人である。

3人はどのようにして「怨霊」になってしまったのだろうか。

①菅原道真

894年に遣唐使の廃止を提言した人物として教科書に登場する菅原道真。
貴族として最高位の右大臣の地位まで上り詰めるも、藤原氏の陰謀によって大宰府に左遷されてしまう。

2年後、失意の中で道真は死去。
道真の死の5年後、陰謀の首謀者である藤原時平が39歳の若さで急死。
その後、都は毎年のように洪水、長雨、干ばつ、伝染病などの災害にみまわれ、930年には御所の清涼殿に雷が落ち、複数の焼死者を出した。

人々はこうした災害を菅原道真による祟りだとして恐れ、朝廷は北野天満宮を創建し、菅原道真を祀った。

当初は落雷があったことから「雷神」として祀られた道真だったが、時が経つにつれて学問の神様として崇められるようになっていった。

②平将門

平将門が関東一帯で935年に起こした反乱は、「平将門の乱」として現代でも語り継がれている。

中央政府に不満を持った関東の武士たちをまとめた将門は、「新皇」を名乗って新しい国家づくりを始めた。
しかし、朝廷が軍をおこすと乱は2か月もしない間に鎮圧され、将門は戦死。

遺体は現在の茨城県に埋葬されたが、刎ねられた首は京都に運ばれ、河原でさらされた。
その首は腐ることなく、目を見開いて「胴体と首をつないでもう一戦するぞ!」と叫んでいたという伝説も残っている。

そして3日目には胴体をもとめて首が空を飛び、故郷の関東に戻っていったと伝えられている。
首が落ちた場所として知られているのが、東京都千代田区大手町にある「将門の首塚」だ。

すでに仰天のエピソードが続いているが、平将門を三大怨霊たらしめたのは首塚の祟りだと言っても過言ではない。

関東大震災で全焼した大蔵庁の仮庁舎を建てるため、首塚を壊して工事を行った。すると、仮庁舎を建設したわずか2年の間に、大蔵大臣を始め関係者14名が亡くなった。

さらに、戦後間もなく米軍が首塚の取り壊し始めたところ、ブルドーザーが横転し運転手が亡くなる事故が起きた。

こうした出来事は平将門の祟りとして恐れられた。
東京の超一等地だが、都市の再開発でも首塚に手はつけられず、首塚は現在でも大切に祀られている。

③崇徳上皇

1119年、鳥羽天皇の子として生まれた崇徳上皇は、生まれた時から不幸にみまわれていた。
彼は、鳥羽天皇の子ではなく、鳥羽天皇の妻と鳥羽天皇の祖父である白河法皇との不倫によって生まれた子ではないかと噂されていたのだ。

崇徳上皇はわずか5歳にして天皇になった。
しかし、当時実権を握っていたのは天皇ではなく天皇を退位した上皇だ。
もちろん、実権は崇徳天皇ではなく、鳥羽上皇が握っていた。

鳥羽上皇にさらに自身の子として疑いのない体仁親王が生まれると、崇徳天皇は無理やり退位させられ、1141年、体仁新皇が3歳という若さで近衛天皇として即位した。

鳥羽上皇は法皇となって実権を握り続けた。
病弱だった近衛天皇は1155年に17歳の若さで崩御。
本来であれば崇徳上皇の息子が帝位を継ぐはずだったが、鳥羽上皇はさらに自分の息子である後白河天皇を即位させる。

この仕打ちに耐えかねた崇徳上皇は、翌1156年に保元の乱を起こすも敗北、讃岐に流される。

仏門に入った崇徳上皇は、乱を起こして多数の犠牲者を出したことへの反省から、3年がかりで写経した写本を京都の寺に奉納しようとした。
しかし、朝廷から「呪いが込められているのではないか」との疑いをかけられ、奉納は拒否されてしまう。

これに怒った崇徳上皇は、自らの舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と呪いの言葉を書いたとされている。

その後、崇徳上皇は崩御するまで爪や髪を伸ばし続けて妖怪のような見た目になったという。崇徳上皇の入った棺からは、蓋を閉めても血が溢れ出してきたと言われている。

崇徳上皇の死後10年ほどたつと、皇族関係者の死や大きな争乱が相次いだことから、崇徳上皇の祟りだと恐れられ、怨霊伝説が定着していった。
(しかし、肝心の後白河法皇は「日本第一の大天狗」とまで言われて天寿をまっとうしている)

【目次】

【参考】


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