会話と愛情と

私の口数が多くなる日は寂しいを感じている日だと思う。
楽しい人だと思われたい。
私の発した言葉で笑って欲しいと思う。
それを愛だと思っている。
それが正しいのかはまだ分からない。

思えば昔からよく話す子だった。
今は憎しみしかない母親に対して、どんなに小さな事柄でも学校であったことを「今日ね、今日ね、」と話し続けた。
母親は無視はせずとも今思えば生返事だったのだと思う。
たまに笑ってくれればとても嬉しかった。
そして思い返せばそれは「会話」ではなく私の一方通行だった。

大きくなって、今大人になって、私は旦那によく話をする。
小さな事でも笑ってもらえるならそれで嬉しい。

ただ、問題があって。
私はもう子供ではないし、何より旦那の子供ではないのだからいくらかは弁えているはずだ。
例えば体調、相手の気分で「話の受け入れの体制ではない時」があること。
何もかもを受け入れてもらえる訳ではないこと。
私と旦那は別の人間であるということ。

とても寂しさを感じる日は、その弁えが外れてしまうのだ。
寂しさが私を覆い尽くして、ついには気持ちがずんと落ち込んでしまう。

そんな日は、文章にするしかない。
壁打ちして、心を落ち着けるしかないのだ。

私にとって愛とはコミュニケーションをいかに密に取れるかなのかも知れない。

親と出来なかったこと。
一般的な関係での、親とのコミュニケーション、イベント、何もかも知りたいし満たしたい気持ちは未だにある。
もはや執着かも知れない。

でも仕方ないじゃん。
私が今生きづらい問題の元を辿ればいつもいつも親との確執があって、それはもう乗り越えることも出来なければまだ忘れることもできないのだから。

物をもらうこと、好き。
愛情が目に見えるから。

笑ってもらうの、嬉しい。
私を肯定してくれたように感じる。

どのくらい愛されれば私は満たされるのだろうと考えても、答えはきっと、無限なんだろうな。

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