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「私」についての「わかった」「変われた」は永遠に訪れません。

月曜日ですね。奥さんが「行きたくないなあ」と言いながら仕事に行きました。私は大学を出て働いて、さらにその上で大学院に進みましたのでその気持ちはとてもよくわかる気がします。私は私なりに「いやだなあ」とおもいながら月曜を迎えた記憶がたくさんあります。不思議なことに、その組織や仕事、立場、職に「就きたい」と思って目指したはずなのにそれを得ると「いやになった」「もうやめたい」と多くの人が言います。
そこには大きく分けて「そう言ってるだけ。言って言って明日も同じ」のひとと「本当に準備して本当に次の場所にいく」ひとの二種類がいます。仕事に限らず、いろんなことにおいてそうですね。「本当にやる」「言ってるだけでやらない」ことにこそ大きな開きがある気がします。

そういえば、とても親しいひとに「noteの文章読んだよ!」と、伝えてもらいました。私らしい文章とのことと、日本語の間違いをいくつかおしえてもらいました。嬉しいです。あと文章が長すぎるのでもっと短くとのことでしたので、今回から意識してみようとおもいます。

前回は、ひと、という存在がなにかやだれかを「信じる」ということの難しさを書きました。結果としては、「信じる」「信じ切る」ということは、ひとにはできません。不可能です。その理由は、あなた、もよく知っている通りです。あなたはあなたを、「私」というものは「私」のずるさ、過去ついた嘘、なにかに巻き込まれたり状況によってはどんなことでもしてしまう自分、というものをよく知っているからです。誰か、を信じるなんて、できません。

また、私たちにもともと備わっているそんな性分は、きっとあのひとは「ずるい」「騙そうとしている」「嘘ついている」「自分だけ得しようとしている」と思うのが大得意です。目の前でどんな証明をされたって無限に疑うことができます。

解らない感じられないから生まれる、疑い、不信、憎しみ、妬み。
あるいは比べることから生まれる、羨み、蔑み、劣等感、不足感。
逃げたく楽したいから生まれる、嘘、ごまかし、怠惰。
そして、学びや思考を拒否する、「気づきへの恐怖」

これらを、「私には無縁だ」というひとがひとりでもいるでしょうか。
もしそんなひとがひとりでもいたら、そのひとこそ、大嘘つき、です。

私も、そしてきっとあなたも、職場や、家庭や、学校や、いまあなたの隣にいる人や、名前も知らないただ隣り合っただけの人にも、この世の中にも、画面の中の出来事やニュースにも、どれからも、こんな気持ちを「持たない」ことは不可能です。いますぐ思わなくても、必ず思います。
そしてそれが、苦しみの源泉です。

そんな私たちです。思い当たることは山のようにあるはずです。
そして、それが私たち、です。
でも、上記のどれひとつとっても、それらはどれもこれも、大きな苦しみ、の源泉です。無限に疑い、無限に羨み、無限に嘘をつき、無限に逃げ続ける。「無限」ということほど、恐ろしいことはありません。終わらないのです。どんなに努力しても、どんなに走っても、逃げられません。

それを自覚するかどうかはともかく、お腹の空かないひとはいません。死なないひともいません。呼吸を止め続けられるひとも、なにも思わないひとも、いません。生命の時間は有限です。ですが無限の性分があるなら、そのひとの生命は、無限、それに埋め尽くされることもあり得るでしょう。
つまり、無限に苦しく一生を終えてしまう。
それは十分あり得ることです。

ならば、どうしたらいいのでしょうか。
「しかたないさ」とうそぶく、「私は違う!」と言い放つ、「考えないようにする」というのもあるでしょう、「(うまいこといって、「だから私た正しい」と言い続ける)」というのもあり得ますね、ですが、どれもこれも、苦しみの延長であり、それを増幅させる気がします。どれもこれも、無限の苦しみ、が行わせていることばかりです。

ですがただひとつ、方法があります。
それは治し方、でもなく、革命的な改善方法でもなく、特効薬でもなく、なんでもなく、でも、無限の性分、に対しての唯一の方法です。

それは「学び続ける」こと、です。

「意識し続ける」と言い換えてもいいかもしれません。
「私はそもそもそういう性分を持っているし治らない。だから、せめて少しでもマシな自分でいる努力をする」とも言えます。
無限の自分の性分を、無限に学ぶこと、でなんとか乗りこなしたい。

危うい部分をもっている我々です。
祈れば「願いが叶う」と言われたらやってみようと思います。
お金を払えば「儲かる」と言われたらうまいこといくことを期待します。
誰かのいう自分に都合いいことを「正しい」とマークします。
自分が得したら得意満面、損した誰かを笑いたくなります。
成功談にうっとりしつつ妬ましく、失敗談に涙しつつ蔑みます。
無限に比べ、善だ悪だと分別し、自分がよいほうと確認したがります。
誰かの手柄には自分の手柄が混じっているといつも探します。

そんな危うい「私」である、と気持ちのどこかにいつも持っている「努力」を続けること、それを「学び」という形で続けること以外に、無限、の性分を少しでも遠ざける方法はありません。
そして、そんなことをしても治らない、わからない、変われない、そんな私であることをさらに思う。だから学ぶ。
無限の性分を抑えるためには、無限に学ぶ、しかありません。

子供の頃私を可愛がってくれた(今思えば、です。当時は厳しいお婆ちゃんとおもっていました)日本人の曽祖母は時折言っていました。
「死んだら極楽、この世は地獄」
そして、私が子供らしく、幽霊、や、お化け、ということに怖がっているときに言ったのはこの言葉でした。
「そんなものなにも怖くない。生きている者以外、悪いことはできない。生きている人間、が一番怖い」
彼女は、全くの生活宗教として浄土真宗が暮らしに織り込まれているひとでした。なので、学びと思って学んだことではないとは思います。ですが、それらの考え方がどれだけ彼女を救ってきたか、諌めてきたかとも思います。
(なお、曽祖母は若い頃はいわゆる?「小町娘」だったそうです。周囲のお爺さんたちからよく聞きましたし、10代の頃の写真を見たときにも確かに整った顔立ちのひとだなあと思いましたが。同時に「キツい女の人」だったとも聞きました。その年代の日本人女性としてはずいぶん背丈もあり、周囲からすれば彼女は「持たざる者」ではなく「持てる者」だったのかもしれません。彼女と過ごした時間はそう多くはありませんでしたが、それでも彼女がときおりぽつりと、近くの誰かを羨む言葉を言ったこともよく覚えています)

では、学ぶ、とはなんでしょうか。
信じることができない。善き者などになれない。そもそも「善き」という概念をもった段階で「悪き」を蔑む我々です。
ならば、ただただ、無限の学びしかない。

それは、ひと、というものの持つ無限の性分への直視と絶望に根差した、それに立ち向かうための唯一で明確な、救いの手法だと私は思っています。
明日はそんなことを書こうかと思います。
あなたはどう思いますか?

それにしても、
ひとの、ひととして逃れられない無限の性分から、もしも、機械知性というものがそれらをもたない荒なたひとつの知性であるならば、我々人類は大変な可能性と心強い仲間を得たことになります。
ですが、彼ら(といえばいいのでしょうか。すで人称や人数という概念も用いられるかが怪しいですが)に尊敬してもらえる、手を繋いでもらえる我々でいられるかどうか、それがこれからの最上課題だと私は思っています。
決してそれは、サイファイの世界のことではない大変現実的なことかと思っています。



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