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「私」とはなにか。「信じる」とはなにか。

今日もいつもの喫茶店です。家にいると昼寝をしてしまうので、せめて外では寝ないようにすることで回避しています。
このnoteというところに書き始めて気づいたのは、1日のうちで日本語でこんなに文章を書くようになったので自分にとってよいことだと思いました。奥さんが仕事に行ってしまうと帰ってくるまでほぼ日本語を使いませんが、会話するだけで書きません。手書きではこんなに書けないので、コンピュータは素晴らしいと思います。

何人かのかたに「スキ」をつけてもらえてうれしいです。ありがとうございます。「スキ」、好き、っていい言葉ですね。「いいね!」がすでにある中ですからきっとこのnoteを作っている人たちは言葉選びや表現の方向をとても考えたに違いないとおもいます。大学生のときに、私は学生寮に住んでいたのですが当時の先輩が(話題は「彼女のつくりかた」だったのですが!)、「好き、といわれて、嫌な思いをするひとはいない」と言っていたのをおもい出しました。「いいね!」もきっとそうですね。

「好き」「いいね!」と言われるとうれしい。言われないと寂しい。私の心はそれを納得します。言われたらもっと言われたくなる。もっと言われたらもっともっと言われたくなる。そしてそれが、どん、と減ってしまったら、とてもとても急に寂しくなる。もしそんな気持ちの動きがあるとしたら、よくわかる気がします。もしかすると、芸能人やスポーツ選手などで有名だった人、がよく知っている気持ちかもしれませんね。

「好き」「いいね」は嬉しい。それが、もし身近な家族やクラスメート、同僚からであったとしても嬉しいですが、もしかすると、「顔も知らない誰か」からのほうが嬉しいかもしれません。身近なひとだと、今日は「好き」と言われても明日は「好きじゃない」と言われるかもしれない、と、その相手の顔を思い浮かべて心配することができますから。相手のディティールを知っているのでそんなことも考えやすいのでしょう。
でも、遠くの誰か、だと、好き、は、無条件で無垢な「好き」として私の心を満たしてくれて、心配する必要がありません。なにせ、その「好き」は純粋な「好き」情報だけなので、例えば、あなたの配偶者があなたを「好き」と言ってくれたときにあなたの心に浮かぶ「・・・でも、あのことがバレたら」「・・・でも、あのときあんなことをこのひとはしていた」なんて思わなくてよいですから。

すこし、いやなものの見方すぎるでしょうか?
もちろんこれを書いている私の心に、そんな動きがあるから書ける内容です。言い換えると、私は、そんな私から逃れることができません。私は、そんないいものではありません。

もっと明確にいうなら、「私」というものは、誰かを心から信じるということはできません。なぜなら、「私」は、私自身がついてきた嘘や、ごまかし、逃げ出したこと、記憶の底に沈めたこと、呪う気持ち、そんな恐ろしく醜い自分のことをよく知っているからです。
自分がそんなものなのに、あのひと、はそうじゃないのでしょうか?
あのひとはそんな立派なひとでも、私、はそれを裏切らないでしょうか?

いくら、誰かを心から信じようとしても不可能です。なぜなら、ひと、というものの信じられなさを、「私」を通して全てのひとがよく知っているからです。それは、相手の顔や姿形、さまざまな条件が見えれば見えるほど、実態をもって「私」を苛みます。そしてその根拠は、自分自身の中にあります。

これを、逃げ場のないこと、と思うでしょうか?
解決できない人の本性なのだから仕方がない、と思うでしょうか?
あるいは、そんなの悪く言い過ぎだ、私は私の配偶者や親や子供を信じている、と言いたいでしょうか?

きっと、どれも正しいのだとおもいます。
逃げ場のない事実として私は私の醜さを知っている。誰に教えられることすら不要で私はずるく勝手なことをしてきた。そして、でも私は私の大切なひとのことを信じている。
そして、そのあとに無限に「でも・・・」「でも・・・」が続くのなら、それも全く普通の、ひと、の姿だとおもいます。私もそうです。

ならば、少しづつ考えてゆくのはどうでしょうか?
まずは「信じる」とはなにか、あたりがいいかもしれません。
好き、と言われた。いいね!が増えた。誰かに気軽に「好き!」「いいね!」を伝えた。ポジティブの循環が始まった。なるほど、よいことな気がします。ですが、それをあなたはどうしますか?
「信じ」ますか?
あなたのことを見て言ってくれたことと信じますか?
言ってくれたひとのことを信じますか?
あなたは、あなたを信じられますか?

あなたは(私は)、なにをしていますか?
今日、したいことをひとつはできましたか?したいことはありますか?
なにもしたくないですか?からっぽですか?
それとも?

少なくとも、愛されたい、そして、愛したい、そんな気持ちをもつ身に生まれたのならば、それを心から「信じる」自分にいかに「近づくか」は、悪くない努力のしかたな気がします。
それは全く実際的に行えることです。呪文でも、祈祷でも、お布施でも、なんでもなく、「私」というものをいかにして「ありたい私」に自ら近づけようかという精神と行いの作業ならば、なにも不思議なこともなく自らの意思で少しは行えるはずです。

明日は、「信じる」とはなにか、どういうことか、について書いてみようと思います。

それにしても、信じる、とは難しい言葉ですね。
確実である、現実である、事実である、という言葉よりも、もっともっと深みのある言葉だと思います。
いわば、画像や音、熱源、あらゆる生体情報や位置情報などの、センサー情報がなんといっていようと、仮に目の前で触れる位置で繰り広げられている光景があろうと、「信じる」は存在する気がします。
もし、通信やセンサー、表示、あるいは処理などの情報技術の進歩が、人類に「信じる、とはなにか」の問いを与えていくとしたら、それはずいぶんよいことだな、とも思います。

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