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「私」を「信じる」ことができますか?

今日はちょっと嬉しいことがあった日でした。指導教授から、私が今後志望している道筋への推薦状をいただくことができました。私はけっして誰よりも優秀な学生…というわけではないのですが、少なくとも推薦を裏切らないように頑張ろうと思います。
あと、私の周りでは新しいテレビゲームのことが話題です。PS5で遊ぶhorizonというもののようです。きっかけがあって発売日にPS5を買いましたがUHDの再生やメディア機器としての使用が主なので、私もそのゲームをやってみようかなとも思います。

それにしても、推薦状、というものはお願いするに側も発行する側にも、相当重いものだと思います。あなたに推薦してほしい、とお願いすることも、推薦する、との意思をいただくことも、また、自分のサインをいれて推薦しますということも、推薦した結果やその後を聞くときも、双方にとって間違いなく気楽なものではないと思います。

そこには、誰かが誰かに、「信じる」、ということを渡したり書いたりお願いしたり、ということを行うからではないでしょうか。なにせ、「信じる」とうからには、それは目に見えること、触れたり、すでにある、ことではなく、これからのこと、まだ起こっていないこと、目に見えないことについて、「私は、彼は頑張ると「信じている」」「この推薦状に書いてあることを「信じる」」「能力があると「信じる」」のような、実際はなんの保証も確認もできないことを断言しないといけません。これは言う方も言われる方も、受け取るほうも、相当覚悟が必要です。

なにかの組織や集団、立場を得るための「推薦」やそれに伴う「信じる」だけではなく、私たちの日常は「信じる」「信じている」「信じた」でいっぱいです。
お父さんが真面目に働いて今日もいつもの時間に帰ってくると「信じる」、取引先は予定通りに支払いをしてくれると「信じる」。水道の蛇口をひねるとお水が出ると「信じ」ていて、それをそのまま飲んでも安全であると「信じ」ている。心の安らぐ、素晴らしいことだとおもいます。

お父さんを四六時中見張っていなくても、取引先に毎日「必ず払ってくださいね」と連絡しなくても、水道管のクオリティや貯水池の警備状態を確認しなくても、「信じ」て、それをいちいち思う必要もないくらいに「信じている」。そのことで得られているのは、いつもいつでも、「大丈夫かな」「ほんとかな」「確認しないと」といつもいつも思うような心の力を使わなくて良い、という貴重な現実です。

言い換えると、いつも見ていなくても、いつも確認しなくても、心の力を使わずに済むこと。これを「信じる」というのかもしれません。
つまりは、私たちの視覚などへの入力とは関係なく思っていること、触っていなくてもその存在や意思を「疑わない」ことは「信じる」のひとつの姿のようです。
私について推薦状を書いてくれた教授も、私が参加したい組織において、またその立場において、在職中にじっと私を監視するつもりもないと思います。いわば彼の信用を紙に明記したものを私に渡すくらいに、「信じて」くれているのだとおもいます。

ですが、残念ながら、「私」というものは決して完全に信用できるようなものではありません。日本語にも、「出来心」「魔がさした」「つい」「あのときはどうかしていた」等々、それを表現する言葉がたくさんあります。「私」は、「私」というものの信じられなさから逃れることができません。そんな「私」をいやというほど知っているのですから「誰か」を心から信じる、疑わない、ということの困難さはよくわかります。

お父さんは、仕事に行っているといいつつギャンブルに通っているのかもしれない。あの取引先は支払いを必ずしてくれるという保証なんてない。マンションの浄水槽は汚れているかもしれないし水道管も錆びているかもしれない。

そういえば、お父さんの帰りが最近いつも遅いけど妙に優しくて気持ちわるい、なにかやましいことがあるのかも。あの取引先は最近メールをしても返事が遅くなった、なにか資金繰りに問題があるのかも。ニュースで水道管の劣化による被害というのを見た、もしかしたら。

上記のどれもが、自分が直接見て知ったことでも、自分の五感で確認したことでもありません。ですが、「かもしれない」はいつも私たちの心に潜んでいます。信じるよりも、疑うほうが容易いです。なぜなら、「私」は「私」の信じられない部分をよく知っています。そして、「損したくない」「自分のせいじゃない」はいつでも私たちの心に埋まっています。

もし、ふと、なにか疑問を持てば検索してみよう。誰もが思うでしょう。
とても手軽で、恥ずかしくなく、思うままに聞けます。
検索ワードは「会社員」「帰りが遅い」「嘘」あたりでしょうか?「取引先」「不安な兆候」「よくある」ではどうでしょう?さらに「マンション」「水質」「(築年数)」とかかもですね。

するととたんに、たくさんの、「私ではない、誰かの」書いたもの、言い分、意見、本当か嘘かなんてこれこそ確認しようのない、いろんな文字や画像のかたまりが私たちに飛んできます。
多くの場合、最も私たちの目につきやすい場所に出てくる「それ」は、もっとも多くの人が参照しているであろう「それ」です。つまりは、みんなが大好きな、なにか、が入っているものです。それは正しいから、正しくないから、ではなく、「私」にとって「見てみよう」「なるほど」とおもえるかどうか、で順位が決まっているだけです。それが、怖いもの見たさや、衝撃的なものだから、不安や心配を増幅されるものだから、であっても不思議ではありません。

そうだ、お父さんにカマかけて聞いてみよう、昨日の夜は遅かったけど誰とどこにいたの?そうなの会社のひととなの、誰と?どこで?(最近の様子は、ブログで読んだ記事とそっくりだから・・・)
そうだ、あの取引先と取引のある別の会社のやつにそれとなく聞いてみよう。最近あの会社の様子はどうですか?入金されてますか?(検索したら、最近業績が悪いと書いてあったから・・・)
そうだ、マンションの管理会社に聞いてみよう。ちゃんと管理してますか?証拠はありますか?数値を出してください(xx年以上は要注意とか、水道の蛇口の色がくすんできたら「水の毒」が染み出しているからってネットに書いてあったから・・・)

「不信」を突きつけられたら、「不信」が帰ってきます。
自らのことを考えても当然のことです。私のことを疑うひとを、信じよう、と思うのは相当に困難です。それどころか、その小さな不信から始まる負の連鎖は、いつでも、ひと、というものの、「私」自らへの不信をエサに大きくなろうとします。

もちろんこんなことを、「よい」「そうあるべき」「それでいい」とおもう者はいないとおもいます。
信じ合おう、愛しあおう、疑わないこと、信じ抜くこと、そんな言葉は流行歌の歌詞にも多くあります。もしかすると、そういったことへの憧れや理想がそれを歌わせるのかもしれませんね。
では、どうすれば、信じ合える、のでしょうか?
では、どうすれば、信じ切れる、のでしょうか?

結果を言えば、不可能です。
そんなことは、ひと、には不可能です。できません。上記のような、おぞましい心の動きを行わない者になど、なれません。あなたは出来心や、つい魔が刺してとか、あるいは、疑う気持ち、正しいとか間違っているとか、善とか悪とか、そんな気持ちを一才持たない人になれそうですか?
私には、不可能です。そんな「私」は、当然皆にも不可能だと考えます。

では、どうしようもないから、もう仕方がないのでそのまま、では、私たちは不幸な、悲しみばかりの人生を過ごすことになります。
繰り返しになりますが、上記のような「ひと」の性質はどのようなことをしても変わりません。祈祷をしても、お布施をしても、姿形を変えても、変わりません。
ならば、どうしたらいいのでしょうか。

そもそもの立ち位置を、この考え方にもつのが浄土真宗です。そこからの考え方を少し参考にしつつ、次の記述で(有名なサイファイ小説の日本語タイトルを少し真似するなら)「たったひとつ、ではないかもしれないけど、でも悪くない(冴えた)やりかた」について書いてみようかとおもいます。

「たったひとつの冴えたやりかた」は、James Tiptree, Jr.の短編の日本語タイトルですね。もちろん世界的に有名な短編ではありますが、日本では特に愛されているような気がします。内容の素晴らしさもありますが、この日本語訳のタイトルの素敵さも大きな理由のような気がします。自己犠牲的で、切なくて、消えてゆく物語ですから、そもそも日本人好みなのかもしれませんね。でも、それを書いたのは米国人ですし、つまりは、傾向というものはあっても、ひと、というものの本質はそんなに変わらないのかもしれませんね。私も日本が大好きです。ですが、これを英語で書いていたら(読んでいただいて解る日本語で書けていると信じたいです)、あるいはアジア系ではない姿形の者が目の前でそれを言うなら、受け取る人の感想は変わってしまうかもしれませんね。
文字情報だけでも、ビジュアルがあればなおさら、それによって受け取る側の気持ちが変わってしまうことは、これもこれで、ひと、というものが、いつまでも離脱できないことのひとつかもしれません。
ならば、そこにこそ、ヒトではない知性、の可能性がある気がします。



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