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同行二人

同行二人
読み方:どうぎょうににん

お遍路などの巡礼、霊場巡りにおいて、常に自分には弘法大師がついていてくれる、弘法大師が共にいてくれるという意味で書きつける語。

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一方、キリスト教の世界においても、似たような有名な話がある。

キリスト教会において親しまれてきた「あしあと(フットプリント)」という詩があります。今日は、この詩と、この詩についての伝えられているエピソードを紹介します。

あしあと(Footprints) 原作者 マーガレット・F・パワーズ
ある夜、彼は夢を見た。それは主イエスとともに海岸を歩いている夢だった。空に彼の人生が次々と映し出された。彼は、人生のどの場面にも、二人分の足跡が残っていることに気づいた。ひとつは自分のもの、そしてもうひとつは主イエスのものであった。
そして人生最後の光景が映された時、彼は砂浜の足跡を見た。そこには一人の足跡しかなかった。それは、彼の人生で最もつらく悲しみに打ちひしがれていた時も同じであった。彼はそのことでひどく悩み、主イエスに尋ねた。
「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではありませんか。けれども私の人生で最も苦しかった時には、一人の足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?私にはわかりません。」
主イエスは答えられた。
「私の大切な子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの只中にいた時、ただ一人の足跡しかない時には、私があなたを背負って歩いていたのだ。」


私は、微かに、ここで書かれている詩の内容や99匹の羊をおいて、迷った1匹を探すイエス様という存在を信じていた。
だが、それは信じても無駄なものだった。21世紀のイエスキリストは、何の悩みも訴えず、叫びもない平和な教会の中しか知らない人と共にいる。
人生の荒波に苦しむ時に同行してくれる方ではない。

教会の門は今は開かれていない。

こちらは、以前私が異端審問とやらで破門になった教会だ。
教会メンバー以外は来ないで♪
を堂々と書いている。
多分、この姿勢はコロナが落ち着いたとしても変わらないだろう。

その後、私はプロテスタント教会に通い始めた。
博学で、しかも、現実生活に沿ったメッセージ、人を思いやる心を持ち合わせた方に出逢った。
東洋英和女学院大学・名誉教授H先生からは様々な事を教わった。
1950年代、ドイツに留学するに当たり、横浜港からソ連に船で行き、そこからシベリア鉄道でドイツまでの旅の話。
鉄道オタクの私からすると、シベリア鉄道など夢の世界だ。
お金を貯めて、いつかは。。。の憧れだ。

H先生は、私をいつも庇ってくれた。
その先生が亡くなったのは、2020年4月。イースターの後であった。
涙溢れる中で、私は牧師に呼ばれた。
牧師夫妻から、それまでの貯まりに貯まっていたストレスをぶつけられ、
出ていくように言われたのであった。

私が信頼するMさん(お姉さまがH先生の奥様)が同席で話し合い、私が悔い改めるように、と、Mさんは考えていたらしい。
だが、Mさんが礼拝の報告の時に、牧師に呼ばれた為、牧師の怒りを一方的にぶつけられただけであった。
そして、その後、何人かの教会メンバーから聞いたのが
私は、席上献金が回ってくる時に箱に手を入れてお金を入れたふりをしている。ポーズだけで入れていない。
という事実無根のデマであった。
仮に本当だとしよう。
私は、この教会のメンバーではないのだ。クリスチャンの資格をはく奪されているので、聖餐だって受けていない。
つまり、大金を納める義務はないのだ。非難されるいわれはない。

その後、昔から行っているお米屋さんの裏にあるお寺に行った。

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それまで気にも留めなかったのだが、こちらは真言宗の寺院であった。

横浜市願成寺弘法大師様

弘法大師様の姿に涙した。
そうか・・・イエスキリストは、私と共に歩いてくれないが、弘法大師様は「同行二人」。共に歩いてくださるのだ。

コロナ禍で、どこのキリスト教会も礼拝はオンラインだった。
特に仲良しのクリスチャンがいない私は、独りである事を考え始めた。
それまでは、教会でお昼ご飯を食べ、午後は勉強やら楽しい会やらで、真に自分自身を見つめたり、宗教について考えたりした事がなかったのだとわかった。
日曜日、家にいたくない。教会に行けば沢山の人と食事を食べて、話をして、楽しく過ごせる。
牧師からは、私のその姿勢を怒られた。
礼拝には平気で遅刻するくせに、午後の勉強会(牧師夫妻が参加しないから楽しいのだ)に喜々とするのはどういうことだ!と。
確かに、そうなのだ。私は人を求めていた。

コロナ禍により、他人との交わりがなくなること。これはどういうことか?
影響を受けた人間は私だけではないと思う。
付き合いとか義務とはいえ、ランチや飲み会を会社の人、ママ友などとしていた人たち。
独りで何をしたら良いのか考えたと思う。

私がそんな時にハマったのが五木寛之先生の本だ。
五木寛之先生は浄土真宗の信者である。特に蓮如さんが好きなようだ。
五木寛之先生が70歳を超えて、全国のお寺を廻った事を知った。
日本は山が多い。高野山、比叡山に代表されるように、寺院は山の上にある。体力のない者にはかなりキツイのだ。

自分は、とにかく、弘法大師様の像を探し回った。

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私の父、伯父たちの墓のある寺の弘法大師様も初めて会った。
本当は昔に会っていたのかもしれないが、目に停めていなかったのだろう。

コロナ禍で、多くの建物が鍵をかけていたが、寺社仏閣の庭に独りで入るのは自由だ。建物内に入るのは禁止されていた所も多かったが、それでも、お寺の庭にいると、心が穏やかになっていった。

キリスト教会は、いつも🔓が掛かっていて夏目漱石の門を想う。
他の信者との交わりのない期間に、独りで本を読み、考えた末、私は、どこかの教会や寺院には属さない生き方を選んだ。

私が生きているのは、強い門に守られた安全な室内ではない。
だからこそ、同行二人を強く願うのだ。

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