見出し画像

寺よ、変われ~読書記録329~

2009年当時、長野県松本市・臨済宗妙心寺派神宮寺住職であった高橋卓志僧侶による著書。

日本の寺は、いまや死にかけている。形骸化した葬儀・法事のあり方を改めるだけでなく、さまざまな「苦」を抱えて生きる人々を支える拠点となるべきではないか。「いのち」と向き合って幅広い社会活動や文化行事を重ね、地域の高齢者福祉の場づくりにも努めてきた僧侶が、その実践を語り、コンビニの倍、八万余もある寺の変革を訴える。

いちいち肯きながら読んでいった。実家、義理の実家の菩提寺を始め、行く先々のお寺で思っているけど言えない事を代弁してくれた気がしたのだ。

それまで私は、常に安全な場所に身を置き、快適で痛みを感じない場所に逃げ込みながら、生活のためとして都合よく「仏教」を使っていた。わけもわからず、教えられた通りに経を踊み、知ったかぶりをして法を説いていた。(本書より)
著者自身、僧侶の息子である。当たり前のように僧侶になる為の大学に行き、学び、少しばかりの修行の後、実家を継いだのであった。
こういう坊さんは私が知る限り殆どだ。というか、日本の仏教の場合、お寺に生まれていない者が僧侶になれる道は狭い。それこそ、歌舞伎や能の世界みたいにも思う。
私はキリスト教の世界もよく知っているのだが、親が信者でなくても自分で決めて神父や牧師になる人は多いし、反対する信者はいない。
ところが、なんでいなんでい!てやんでい!日本の仏教界。親が坊さんでないと受け入れてくれる寺がないとか、ずっと大きい寺で御朱印を書いてるとか。
はたまた、村上春樹氏のエッセイで知ったのは、浄土宗住職のおじい様が事故で急死の後、寺の跡継ぎなんかになりたくなかったのに檀家さんからの願いもあり、伯父さんが仕事を辞めて頭を丸めたと。
檀家と菩提寺の関係が大きいのだろう。
田舎の旧いお寺は、檀家さんの法要のお金でのほほんとしているものね。
おいおい、人口減少の現実を知らないんかーい。とツッコミたくなる。

本書にも書かれていたが、檀家さんが思うところがあっても言えない、いや、言わないのだ。言っても仕方ない。葬式と法事だけして形だけでいい。こんな風に思う人たちが多いからだ。
私もそれは大いに同感だ。葬式仏教と揶揄されると嫌がる坊さんは多い。じゃ、何か檀家さんや近所の為にやってますか?菩提寺を持たない人が菩提寺となるような事をしてますか?と言いたい。
結局、私は無宗教なのだろう。
本当の仏教徒は、菩提寺やお寺の文句なんぞを思わないし、口にしないものなのだ。それを言ったら、キリスト教徒もそうか。

生きる意味を説き、生きねばならない人々の迷いに明快な指針を提供するのは仏教の領域であり、役割である。かつて仏教はそれらへの対応を専門としていた。しかし、現代仏教の軸足はそこにはない。いつのまにか仏教は「死後」に専一かかわるものとなり、「生」の部分への貢献を放棄してしまった。伝統仏教がいかに「生」を疎んじているか、「生」から遠いところにあるかが、近年際立ってきているのである。
仏教はその本質を決定的に変えてしまったのか。もしそうなら、期待感はもたないほうがいい。(本書より)

全く同感だ。昔は、寺子屋というものがあり、読み書きそろばんはお寺で教えてくれたのではないか?それこそ、寅さんに出て来る御前様のような存在のお坊さん。元気なうちに悟りを教えてくれる人。こんな空気はもう感じない。お寺のシンボルはお墓だ。
キリスト教であるなら、「聖人の生き方に倣う」だの「こういう生き方を」と説教があり、死後の世界というか、葬儀も執り行う。完璧な感じなのだ。
私自身は、死んだら終わりと思っているので、どう生きるかを教えてくれる方がいいと思っている。

著者の体験を通して、お寺を変えたい。もっと檀家さんや求める人の必要に合ったお寺にしたいという思いが伝わる書であった。
これは、一般人ではなく、全国のお寺の坊さんに読んで欲しいと思う。

私はこの神宮寺で「寺とは何をする場所か」「坊さんとは何をする人か」をずっと問い続けてきた。その問いに対して、私は「社会に起きている、或いは起きようとしている様々な「いのち」に関わる難問(四苦)にアクセス(接近)する。そしてその難問に対して、支えの本性(利他心)を発動させ、四苦に寄り添いながら課題の解決を図っていく、という役割を担うのが坊さんであり、その拠点として寺がある」との答えを導きだした。多くの人々と「いのちの現場」に一緒にたたずんだ末の結論だった。(本書より)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?