瀬戸夏子『現実のクリストファー・ロビン』備忘録――あるいは、瀬戸夏子の分裂

はじめに

初めに断っておくと、わたしはおそらく『現実のクリストファー・ロビン』のあまりよい読者ではない。そのためこの記事は半分が備忘録で、もう半分が現時点でわたしの理解した限りの記述とならざるをえない。

本書は「Ⅰエッセイ」、「Ⅱ評論」、「Ⅲインタビュー、ブックガイド、日記」、「Ⅳ歌壇時評」、「Ⅴ作品」の五部に加えて、「すべてが可能なわたしの家で――まえがきのかわりに」、「あとがき」から構成されている。瀬戸夏子の文章にそれほど触れたことのないあなた/わたしは、まず「あとがき」を、その後「Ⅲ→Ⅳ→Ⅱ→Ⅰ→Ⅴ」、そして「すべてが可能なわたしの家で」とテクストを辿ることで、当初あまりに錯綜として見えたテクスト群に、ぼんやりとではあるが輪郭を見出すことができるかもしれない。わたし/あなたはそれを、まるで『スター・ウォーズ』の公開順のようだと思う。

この本をまとめるにあたって、たまっていた自分の文章を読みかえすことになったが、もちろん年月の経過による巧拙の差などはあれど、うんざりするほどひとつのことしか言っていないように思えた。それは、わたしはつねにクリストファー・ロビンを愛するが、現実のクリストファー・ロビンを知りたいという欲望に打ち勝つことはできず、結局のところ、そのふたりのあわいにあるものについて永遠に語りつづけていたい、という欲望である。
(411-12頁、「あとがき」より)

瀬戸夏子の分裂Ⅰ

アウトプットの際は、斎藤茂吉だったり、塚本邦雄だったり、それぞれのニュアンスの違いはあっても、扱いとしては同じ感じにみえるのかもしれない。そのへんがポモっぽいって怒る人もいるかもだけどね。逆にインプットの際は、やっぱり短歌史的な文脈はかなり意識して読んでるつもりなんだけど。
(229頁、「瀬戸夏子ロングインタビュー」より)

瀬戸夏子は分裂している。瀬戸夏子はポモっぽい。瀬戸夏子は要素を詰め込みすぎだ。瀬戸夏子はわからない。瀬戸夏子は居心地が悪そうだ。瀬戸夏子はカリスマだ。瀬戸夏子はフェミニストだ。瀬戸夏子は川柳を荒らすな。瀬戸夏子は――

目次からもわかるように『現実のクリストファー・ロビン』には様々な種類の文章が収録されていて、その筒函には「その目を見張る/多彩なテクストの数々を/ここに集積する」と書かれている。エッセイ、評論、インタビュー、ブックガイド、日記、時評、作品……。あなたは好きな箇所から読み始めることができるし、わたしは好きな箇所から引用することができる。あなた/わたしはこの本を読み進めていくなかで、瀬戸夏子の分裂を、第一にテクストのジャンルという水準において経験する。

短歌というジャンルの話をしようと思う。
(155頁、「ああ、…………よ、君死にたまふことなかれ、——歌は刃を握らせて、母を殺せとをしへしや、…………?」より)

瀬戸夏子はジャンルに言及する。「小説―現代詩―短歌/俳句―川柳」(192頁、「ヒエラルキーが存在するなら/としても」)というジャンル間のヒエラルキーに、「現代詩/ポエム、短歌、俳句/川柳」(205頁、「man&poet」)という「詩」のなかの更に細分化されたジャンルに言及する。「短歌」は隣接した諸領域との関係性――魅力的な言葉だ――のなかで語られる。収録されたテクストのジャンルという水準での分裂は、瀬戸夏子自身のジャンルへの言及を媒介として、今やテクストの意味内容という水準において経験されていくこととなる。

瀬戸夏子の分裂Ⅱ

「Ⅰエッセイ」の冒頭に収められている「ジ・アナトミー・オブ・デニーズ」の末尾には以下の注記が付されている。

(「町」創刊号、二〇〇九年五月、のちに第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』〈私家版、二〇一二年〉にあとがきがわりの散文として再録。早稲田大学学部時代の小説創作の授業にて課題として提出したもの)

この注記に従えば、「ジ・アナトミー・オブ・デニーズ」は「小説」であり「あとがき(がわり)」であり、「エッセイ」であることになる。『現実のクリストファー・ロビン』において、テクストのジャンルは切断され、奇妙に捻じれ、接続されていく。――解体と再構築、瀬戸夏子のポモっぽさ、あるいはそのように言い換えることもできるかもしれない。

[引用者注:連作形式の成立のための]もうひとつの要素とは、連作において主体の姿を浮きあがらせる文脈の力、ストーリーの力、物語の力である。「小説」の力と言いかえてもいい。ただし、ここで言う「小説」とは非常に狭義のものであり、……
(107頁、「「手紙魔まみ、イッツ・ア・スモー・ワールド」、あるいはふたたび書き換えられた『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』の結末について」より)
彼らと彼と彼らについて――『クズとブスとゲス』映画評(218-21頁)
輝きの代価さえも美しいのなら、あなたたちは処刑に値するのかもしれない――小林エリカ著『彼女は鏡の中を覗きこむ』書評(221-22頁)
瀬戸夏子をつくった10冊(269-71頁)

瀬戸夏子は短歌を小説のように読解し、評論には短歌評論のみならず映画評、書評までもが収録され、ブックガイドでは11冊の――10冊ではなく――書名が挙げられている。瀬戸夏子は分裂している、というわたし/あなたが当初抱いていた予感は、テクストの形式や意味内容を通過することでより強固な印象へと置き換わっていく。「分裂」という論点は迂路を辿りつつ、クリストファー・ロビンの方へと差し向けられていく。現実のクリストファー・ロビンの姿がだんだんと見えてくる。まだあなた/わたしのいる位置からは少し離れていて、その輪郭はぼんやりとしかわからないとはいえ。

瀬戸夏子の分裂Ⅲ

日本人には指紋があるから 危険なことをしてはならないと
の一片を100万分割して 理解できる、草の生えたパスタ
また、ださい、艶の多い黄色のレインコートを何枚も着込んで
みみずを多く含んだきれいな事柄が苦手でたまらないサービスエリア
魚が肉になるように、アルファベットが太陽になるように 夢になり
南にはキャンディーを忘れ 2年前には傘を忘れ 忘れていて
冷凍食品ははじめて食べるというこだと思うと ちゃんと就職するつもりはないのかと
グラデーションの 虹を刷かれた日本人の顔に映りこんでピースする
みずうみに星が落ちるくらい、多種多様の太った少女
レシートの裏側にサインしてください それからにも
せっかく 電信柱に血や臓物がついていたのに
わたしたちの新しい日本人たちがシンメトリーで
わたしたちの命より長持ちするというのなら教えてほしいくらいです
みずうみに出口入口、心臓はみえない目だからありがとう未来
金銀の血液の車身をそらす東次第に翻訳する死
海をまるごと吸いこむピアノ 食卓に並ぶ 海をまるごと吸いこむピアノ
長靴のなかに光りがたくさん 泳いでる その支配下と落葉のなかで
(130-31頁、「自選歌五首への批評」より)

「自選歌五首への批評」と題された文章の冒頭に掲げられたこれらの「歌」にわたし/あなたは少なからず驚き(これは「短歌」? これは「五首」?……)、戸惑いながら以下の発言を思い返す。

大村(引用者注:インタビュアー) 第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』では、散文中の太字だけを読むと三十一音の短歌になる冒頭の連作「すべてが可能なわたしの家で」……が、その斬新さから話題になりました。
(230-31頁、「瀬戸夏子ロングインタビュー」より)

ここに並べられた「短歌」を起点として、あなた/わたしは「短歌とは何か」という問題を考え始めることができる。諸説あるが、一説には「短歌」とは五七五七七の三十一音からなる定型詩であるらしい。この説に対してわたし/あなたは500万もの例外を言い立てることができる。しかしいまのわたしにはより包括的な説明を可能とする理論の持ちあわせがない。そこでここでは「短歌」の定義に密接にかかわるとされているものとして、「量」と「韻律」というお馴染みのタームが思い出されるのみとなる。瀬戸夏子は、そして瀬戸夏子の「短歌」は、増殖し、分裂し、「短歌」を解体する。瀬戸夏子自身の言葉を借りれば「短歌殺し」が、そこでは果たされようとしていると言ってもよいかもしれない。

いろいろと程度の差こそあれ、短歌はほとんどまだ文語、というか短歌語なんだよ。どうしたって五七五七七というかたちにおさめることによって短歌独特のシンタクスや文法構造ができる。逆に、それを利用するのが、私にはおもしろい。
(248頁、「瀬戸夏子ロングインタビュー」より)

残念ながら瀬戸夏子の「短歌」についてわたしが話せることはそれほど多くはなく、その理由のひとつとして『そのなかに心臓をつくって住みなさい』を未読・未入手であることが挙げられる。

瀬戸夏子の分裂Ⅳ

批評家・穂村弘は、歌人・穂村弘とは別の人物である。ここでいう穂村弘とは批評家と歌人に分岐するペルソナの原型にあたる人物をさすのだが、その意味において私は彼をまったく知らない。私が知っているのはふたりの穂村弘である。
(76頁、「穂村弘という短歌史」より)

批評家・瀬戸夏子は、歌人・瀬戸夏子とは別の人物である。ここでいう瀬戸夏子とは批評家と歌人に分岐するペルソナの原型にあたる人物をさすのだが、その意味においてわたしは彼女をまったく知らない。

そして、わたし/あなたが知っているのはふたり以上の瀬戸夏子である。

それは、なんといってもいま歌壇で流行している言葉だけど、私だって「人間」だからね(笑)。頑張って読もうとすれば私の歌からも「私性」を抽出するのは可能だと思う。そこまで私の「私性」に関心ある人がいるとしたら変わってるなあとは思うけど(笑)。
(236頁、「瀬戸夏子ロングインタビュー」より)

歌人・瀬戸夏子が――「瀬戸夏子の分裂Ⅲ」で見たように――分裂し、「ただ一人だけの人の顔」(岡井隆『現代短歌入門』(講談社学術文庫)、236頁)を見せず、「私性」をほとんど持たないと言ってもよいような存在であるとして、わたし/あなたはその対極にある、「私性」を持った瀬戸夏子を別の場所に見ることができる。そのようなもののひとつとして、日記における瀬戸夏子は姿を現している。

8/13「SMAP解散のことしか考えられない」、8/18「私は短歌に関連する人物と誰ひとりセックスしたことがない」、8/23「私がむかしさわったことのある手すりに神木隆之介がふれているのを見る……のはとてもいいものだった」
(「ほとんど真夜中に書いた日記」より、それぞれ279、283、288頁)

ここでわたしが日記における性的なトピックばかりを引用していることをあなたはいぶかしむ。そしてその嫌疑は正当なものであると言える。

たとえば永井祐とかの歌を時系列で読んでいくと――これはちょっと本人に冗談まじりで話したりするんだけど――永井さんの性欲の度合いの歴史とかをつい辿ったりしてしまうわけ。若い頃の作中主体は中出ししてごめんとか言ってるのに、最近は妙にぶりっこですね、どうしたんですか、とかさ。いやこういうのは相手との関係性を間違えてしゃべるとセクハラになっちゃうけど。
(236頁、「瀬戸夏子ロングインタビュー」より)


わたしは瀬戸夏子との間に何ら双方向的な関係性を持たず、上記の日記の引用や、それに対する言及が関係性を間違っていないかということに関してまったく自信がない(もし、瀬戸夏子さんがこの部分を読み快く思われなかった場合お伝えください。当該箇所を即刻削除する心づもりです)。その上でこのような引用を行った意図として、わたしは以下のような記述を念頭に置いている。

たとえば、キリスト教の伝統において、人物を性化するのは、彼を神的な真理から締め出すこと、彼をただの(罪深い)人間だと言明することである。近代のポスト=キリスト教的伝統においては、人物を「人間化する」のは、彼の性的欲望を強調すること、被り続ける仮面を言説的に剥いで、中に潜む彼の本質的な人間的真実を暴くことである。
(タラル・アサド『宗教の系譜』中村圭志訳、岩波書店、2003年、262-63頁)

日記における「性化=人間化」と、短歌における「人間=私性」の希薄さ。このような迂路を経ずとも、日記と短歌を見比べてみるとそこにはふたりの瀬戸夏子と呼んでしまってもよいほどの差異が存在していることにあなたは気がつく。

歌人・瀬戸夏子と日記における瀬戸夏子、その他に批評家・瀬戸夏子、随筆家・瀬戸夏子、あるいは柳人・瀬戸夏子、小説家・瀬戸夏子についてもあなたは知っているかもしれない。それらは分裂し、反目しあい、融けあい、ある一点において重なりあうように見える。「瀬戸夏子」というひとりの作者を、あるいはひとつの作品を、わたしは、あなたは欲望する。現実のクリストファー・ロビンって、一体どんな人物なんだろう。

おわりに

わたしは『現実のクリストファー・ロビン』を「分裂」や「増殖」、「解体」といった観点から解釈してきた。わたしがここまでに述べてきたことはもちろん、この本の一側面を強調し、また別の側面を捨象していることに注意していただきたい。たとえばわたしは「Ⅴ作品」からの引用を一度も行っていない。瀬戸夏子の小説、詩、短歌、川柳等については別の機会に触れることができたらと思う。というよりも、わたしはここまでに見てきたような迂路を辿ることで初めて、瀬戸夏子の作品をわたしのなかにーーあるいは歴史のなかにーー位置づける準備ができてきたと感じている。

瀬戸夏子が分裂しているとして、それって何がうれしいのだろうとあなたは考えるかもしれない。それに対してわたしは以下のようにほのめかすことにする。1.「近現代短歌」に対するオルタナティブの提示、2.「短歌」への隣接領域の導入、3.それらの延長線上に位置する「短歌」概念の更新。……あなたはそれ以外にも様々なものを瀬戸夏子から引き出すことができるだろうし、あるいは瀬戸夏子の言説が映し出す無数の鏡像を媒介にして、「現代短歌」や「正史」といった概念をより強固なものにすることさえできる。

現代短歌の無数の鏡像としての瀬戸夏子、わたしの興味はそのような比喩として物語ることができるだろう。あなたはどうだろうか。他でもないあなたは、「短歌」をどのようなものとして捉え、あるいは『現実のクリストファー・ロビン』をどのように解釈しているのだろうか。わからない。わかりたい。もっと饒舌に語ってほしい。……当然のことながら、わたしはあなたではないのだから。

参考文献

この文章を記述するにあたって特に参考にした文章は以下の通りです。

・瀬戸夏子『現実のクリストファー・ロビン 瀬戸夏子ノート2009-2017』書肆子午線、2019年。

青松輝「【歌論】瀬戸夏子・水泳・わたくし」『アオマツブログ』

「青松輝の瀬戸夏子論について」『Tom's Fragments』

これらの文章に対してすこしでも何か新しいものをつけ足すことができていることを、あるいは今後つけ足していけることを願っています。メリークリスマス!

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