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美女と野獣と創作活動

皆さんは『美女と野獣』という物語をご存知でしょうか? ディズニーによるアニメ映画化、そして、近年はエマ・ワトソン主演による実写映画化もされましたね。世界中の少年少女の心に残る、偉大な作品です。もちろん、しゃみめも大好きです。

今年の6月には金曜ロードショーで放映された時に、つらつらと考えたことをnote記事として出力してみましたので、お暇な方はどうかお立ち寄りくださいませ。

美女と野獣とストーリー

『美女と野獣』は永く語り継がれてきた物語です。時代ごとに改変を繰り返してきました。ですが、変わらない部分もあります。

閉ざされた城に野獣がいること。
城で美女の父親が捕らわれ、美女と身柄を交換すること。
野獣の醜さと横暴から、美女が野獣を嫌うこと。
けれど次第に野獣と美女は心を通わせること。
美女は父親に会えない寂しさを告白すると帰参が叶うこと。
美女と離れ離れになることで野獣が弱ること。
美女も野獣と離れたことでかえって野獣への想いを確かにすること。
美女が城へと戻り、野獣は愛を得ること。
愛を得たことで、野獣は真の姿(美しい王子)へと戻ること。

おおよそどのバージョンの『美女と野獣』でも、このような流れです。ちなみに、原作のタイトルはフランス語で
La Belle et la Bête (ラ ベッラ エ ラ ベッタ)
となっていて、韻を踏んでいて素敵ですね。

どこを切り取っても完成度の高い、素晴らしい物語です。では、どうしてこんな物語が生まれたのでしょうか? 6月に家内とテレビを観ながら、妙に気になったのです。

美女と野獣と分解再構築

しゃみめがまず思ったのは、
これは典型的なプリンセス童話、白雪姫やシンデレラのアップデートだな
ということです。

受難者の美しい女性が、
数奇な運命に導かれ、
美しさ故に王子に見初められ、
ハッピーエンド。

こうした物語は世界中にあります。最古の類型としては、アンドロメダ型神話があります。

アンドロメダ型神話からプリンセス童話へ

アンドロメダは母カッシオペイアが自らの美貌が神に勝ると豪語したことから、怒った神々によって怪物の生け贄とさせられようとして、波の打ち寄せる岩に鎖で縛りつけられた。そこを、ゴルゴーンの三姉妹の一人、メドゥーサを退治してその首級を携えてきたペルセウスが通りかかった。ペルセウスは、怪物にメデューサの首を見せて石にし、アンドロメダを救出した。アンドロメダは後にペルセウスの妻となった。その後、アテーナーが星座として天に召し上げた。

英雄が、強力な怪物と戦って女性を救い出すという神話の定型の1つです。
アンドロメダとペルセウスの物語は、英雄譚としての色合いが強いですね。主役はペルセウスであり、アンドロメダは言ってみれば戦利品なわけです。
こうした定型を崩しながら、土地土地の説話、古老の寓意などを同梱されていくなかで、数々の物語が生み出されていったのでしょう。

では、アンドロメダとペルセウスの物語にはなくて、白雪姫や眠れる森の美女などにあるのは、どんな要素でしょうか?
ずばり、女性が主役ということです。
アンドロメダとペルセウスの物語では、アンドロメダは戦利品です。ペルセウスが勝ち取った栄光の一部でしかありません。ですが、プリンセス童話では、終始物語の主役は女性です。女性の苦難、活躍、そして幸福が謳われています。女性は添え物ではないのです。
類型的にはアンドロメダ型神話に収まるものの、焦点が当たる人物が女性なのです。男性の英雄譚ではなく、女性の成功秘話なのです。

きっと、囲炉裏端に集まる少女がねだって、母や祖母が聞かせてきた物語なのでしょう。幼い少女に、生きる希望と、幸せになるための寓意を伝えるために、いつか少女だった女たちが紡いできた物語なのでしょうね。

プリンセス童話から美女と野獣へ

ではプリンセス童話は、完成形なのでしょうか?
夢と現実の狭間を埋める、完璧な物語なのでしょうか?
「そうではない」と思った人がいたのです。たぶん。
プリンセス童話の中で気に入らない部分を見つけて、それを修正改善した作品を生み出そうとしたのです。誰かが。
そうして生まれた物語が『美女と野獣』なのだ! ……というのがしゃみめの仮説です。ちなみになんの根拠もありません。なので、以降はしゃみめの与太話です。これぞ真実! などとは申しません。話半分以下と思召してお聞きください。

では、プリンセス童話と『美女と野獣』の違いとはなんでしょう? いくつもあります。ピックアップしてみましょう。

① 受難者が男性で、救出者が女性です。
② 受難者は醜いにもかかわらず、愛によって救われます。
③ 救出者の人柄や半生についても、しっかりと描かれています。


それぞれについて少し詳しく書き出してみます。

① いわゆるプリンセス童話は、女性が救われる側です。例外はありません。女性の受難については様々に表されています。貧困であったり、継母のいびりであったり、妖精のねたみであったり。ですが、受難者が女性であるという原則は必ず守られています。『美女と野獣』では、これを逆転させています。
② いわゆるプリンセス童話は、救済の要因となるのが「美しさ」です。白雪姫やシンデレラは、美しいから救われるのです。『美女と野獣』では、受難者を醜い野獣とすることで、これを全面的に否定しています。「見てくれの美醜だけが価値だと思うなよ!」という作者の強い意志さえ感じます。
③ いわゆるプリンセス童話は、終盤にフラッと王子が現れます。王子という絶対的な権力を備えた「事件解決装置」として登場します。それだけです。王子には、他にはなんのパーソナリティも与えられていません。人柄は? 半生は? 王子ってどんな人なの? 一切語られません。囲炉裏端で語り継いできた女たちにとって、自分自身と深く共感されるプリンセスの去就については敏感であっても、救ってくれる王子はどうでもよいのです。『美女と野獣』では、受難者も救済者も、等しく物語のなかで生き生きと描かれています。

こうした改善点を経て、どのような物語になったのでしょう?

自立した女性が醜い野獣と出逢い、美醜にかかわらない人の心に想いを寄せて、永い時間をかけて愛と信頼を築き、互いに幸せを与え合う。

素晴らしい物語です! 異論は認めません。

美女と野獣と作者像

ではどんな人物が『美女と野獣』を書いたのでしょう?
もしかしたら、グリム童話のように自然発生的に生まれたものを誰かが編纂しただけかもしれません。もしかしたら、そうではないかもしれません。
仮に、著者がいたとしたらどんな人物なのか? Wikipediaでも覗けばすぐに判りそうなものですが、まずは想像してみることにしました。

きっと女性です。これは確信めいたものがあります。プリンセス童話の類型をガラッと逆転するほどに「女性が男性を救ってもいいのだ!」と思考し、現に行動した人です。女性以外にありえません。

女性の価値が美しさだけではないと断じたのです。キリスト教的生活規範では美と道徳は絶対的な位置づけです。ここから外れてみせたのもまさに剛腕。まして「愛によって男が救われる」なんて! 中世ヨーロッパの規範から大きく逸脱していると言えるでしょう。

女性の半生も、男性の半生も、等しく物語に組み込む姿勢には、おおらかな男女平等思想を感じ取れます。近世の香りが漂う……と言ったら言い過ぎでしょうかね? 十分な教育に根ざした教養が見て取れます。

以上のことから、以下の通りに想像しました。
作者は、フランス人、女性。
貴族かそれに類する知的階級(僧侶の一族や、裕福な商人など)に属する。
十分な教育を得るには、十分な資本が必要ですからね。
創作時期は、宗教改革以後、市民革命以前までの期間。これは、女性の自立を謳いながら、登場するモチーフが城や王子であることから、市民革命以前を想定しました。
さらに付け加えるなら……。男性に酷い目に遭わされて、それでも愛を信じたかった人。これは印象に過ぎません。ま、そう思ったというだけです。

それでは答え合わせです。Wikipediaを覗いてみましょうね。

ヴィルヌーヴ夫人

1740年に刊行した『美女と野獣』の著者であり、この初版が現存する最古の『美女と野獣』だそうです。

ふむ……。ふむふむ……。おおむね想像した通りです。フランス人女性であり、市民革命前に活躍した詩人であり小説家。夫は貴族の子弟であり、不仲によって財産分離しています。財産分離後には娘を授かっています。

自身の境涯を振り返りながら、娘の幸せを願った小説家。なるほど、『美女と野獣』が生まれたバックボーンが鮮明になってまいりましたね。いやいや、もちろん想像の域はでないのですがね。そういう想像をするのがしゃみめの楽しみなのです。御放念くださいませ。

分解再構築と創作活動

このように、勝手に想像して、勝手に確かめるのは、しゃみめの趣味です。陰気な趣味と言われればそれまでですが、妙に好きなのです。

ですが、いいこともあります。創作の役に立つのです。

この物語はどんな要素があるのだろう?
他の似た物語と何が違うのだろう?
違う部分は何故生まれたのだろう?

こうしたことを掘り下げるのは、自分が既存作品から受けた影響を分析し、新しい作品を生み出す助けとなります。


世の中に完全なオリジナル作品なんてありません。必ず以前にあった何かから影響を受けています。
そして、既存作品では満足できない! オレだったらワタシだったらもっとこうする! という強いイメージが自分らしい物語を生むのです。
ボヤっと「完全オリジナルで打って出るぜ!」と息巻いても、まず不可能です。万人に一人の天才だけです。そんなことができるのは。

あなたがマーダーミステリーを体験して、
「話運びは面白かったけど、ラストの展開だけがなぁ……」とか
「登場人物は魅力的だったけど、トリックは納得いかないな」とか
思ったことはないですか?
思ったことがあって、そしてあなたがマダミス作家なら。
面白かった部分と、自分だったらもっとこうするという部分とを、意識してみるといいでしょう。
きっとあなただけの物語が紡がれることでしょう。

……そんなやり方でパクリにならないかって?
まずなりませんね。
だって、『美女と野獣』が白雪姫やシンデレラのパクリだなんて思ったことがありますか? ないでしょう?
自分ならこうする! をギュッと注げば。
必ず新しいものになるんです。
しゃみめの作品も、既存作品を体験して、素晴らしさを目の当たりにして。それでも自分だったらもっとこうするな! という部分をギュギュっと差し込んで生まれたのです。

そして、どの部分が足りないと思うのかは十人十色です。あなただけが気づく欠点、あなただからこそ埋められる要素が、必ずあります。
そんなふうに生まれた物語を、いつかしゃみめが体験したいのです。
新しいものを生み出すために、古いものをギュッと観る。
創作者にとって、きっと役に立つ視点だと思うのです。
ただしゃみめがそう思うという、取るに足らない御話でございました。

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