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センシティブと体験との距離感

マダミス界隈で、センシティブについて話題になる出来事がありまして。
ここでその出来事についてピックアップすることは、指差しの非難になってしまうなという思いが、しゃみめにはございます。
よって、その出来事については言及しません。

ただ、やはりといっていいのでしょうが、

マーダーミステリーというコミュニケーションゲームにおいて、人と人とが面と向かって交流する体験において、心の鋭敏な部分に触りにいく作品というのは誰かを傷つける可能性がある。

ということです。

とはいえ、遠慮の塊みたいな作品が人の心を打つのか? という思いも、しゃみめにはあるのです。

ま、例によって益体も無いお話を、今回もさせていただきます。

センシティブとは?

センシティブって、どんな意味でしょうか?
ちゃんと知って使っている人って、どのくらいいるのでしょうね?
……偉そうな切り口のしゃみずいも、どれだけ正確に把握しているかというと、甚だ怪しいものです。

まずは、辞書から引いて、意味を引用いたしましょう。

sensitive
1. 
感覚がある、感知できる
2. 《病理》〔身体が〕傷つきやすい、炎症を起こしやすい
3. 〔外界の刺激に対して身体が〕敏感な、よく反応する
4. 〔芸術的な表現などが〕繊細な、微妙な
5. 〔芸術作品などに対して〕感性が豊かな
6. 〔外界に刺激に〕反応する、影響を受ける
7. 〔他の人に〕思いやりがある、親切な
8. 〔他の人の言葉などに〕傷つきやすい、神経質な、ナイーブな
9. 〔問題などが〕公にしにくい、慎重に扱うべき
10. 〔情報・技術などが〕秘密の、機密の
11. 〔機械などが〕微妙な差が検知できる、精度が高い
12. 《金融》〔市場などが〕不安定な、乱高下する

病理的な用法、工学的な用法、金融的な用法、様々な使い方があるのが判りますね。本記事において話題に対応するのは、5. 6. 8. 9. あたりが該当するかと思われます。

しゃみめの言葉でまとめると、以下のようになります。

外部からの情報によって、その情報を受け取った側が、望まない影響を受けること。

あくまでしゃみめの捉え方ではございますが、いったんこのように置いておきましょう。

望まない影響

物語とは畢竟、

受け取る前と、受け取った後とで、自分が変わること

こそが価値です。
物語は変化の種です。
種を受け取って、それを自分の中に含み、自分の中に今までなかったモノを通して、自分の心象の変化を楽しむ。
これが、人が物語を楽しむシームといえるのではないでしょうか?

で。
困ったことに、これから受け取る物語の種が、

自分の望む変化を与えてくれるかどうかは判らない

のです。
例えば、
児童虐待を受けた経験を持つ人が、児童虐待をテーマとした物語を摂取した場合、ひどく辛い思いをすることもあるでしょう。
児童虐待の部分を、どんな言葉に代えてもかまいません。
貧困、飢え、レイプ、パワハラ……。
あるいは、逆カプが劇的に辛いという人だっています。
笑ってはいけません。本当にその人にとっては、逆カプが死ぬほどに辛いという方だっているのです。逆カプを回避するために、尋常ならざる労力を払っている人もいるのです。

なにが、人を著しく傷つけるのかなんて、誰にも判らないのです。
でも、だからといって、判らないことを人を傷つけていい理由にしていいはずもありません。

では、どうすればいいのか……?

ゾーニング

なので、必要なのは区分け、棲み分けです。
清い水が好きな魚もいれば、泥の中が好きな魚もいるのです。
ここで重要なことは、清い水が尊くて、泥の中が卑しいというわけではないということです。
どれも等しく、どれもあっていい。
尊重すべきです。
距離を取るべきです。

こうしたゾーニングの整備は、様々なシーンで模索されてきました。
例えば、エロに関する閲覧制限などがあげられるでしょう。
書店や映像作品小売店などでは、ずっと、営々と、ゾーニングを模索してきたのです。
これは、お互いのためです。
エロを観たい人にとっては、エロにアクセスできる環境を守るため。
エロを観たくない人にとっては、エロを直視しないですむ環境を守るため。

そして、一番大切なことは、

今後、エロを観たいと思うかもしれない人に、エロを残すため。

です。
一部の人の好悪によって、文化や表現がなくなってしまうこと。
これが起きないために、ゾーニングしてきたのです。

エロエロと、エロばかり連呼しておりますが。エロエロエロエロ。
エロを別の言葉に当て嵌めても、同様です。
暴力、差別、戦争、などなど……。
観たくない人には観せず。
でも、観たいと思う人には開かれるべきです。

あったこと/あることを、なかったこと/ないことにしてはいけません。
そしてもちろん。
触れたくない人に、押し付けてはいけません。

創作者として

では、しゃみめが作ってきたものは、誰も傷つけずにきたのでしょうか?
ひとり残さず全員の、心を豊かにし、心を温めてこれたのでしょうか?

もちろんそうとは限りません。

触れられたくない部分に、ぎゅうと冷たいものを押し付けられた方だっているかもしれません。
いや、きっといるのでしょう。

でもどうか信じて欲しいのです。
しゃみめは、あなたを傷つけようとして傷つけたわけではないのです。
しゃみめがどうしても伝えたかったことが、偶さか、あなたを傷つけてしまったのです。


悪意はないのです。

創作物というのは、表現物というのは、とどのつまり想いの結晶です。

鋭く尖った部分がないとは、とても言えません。
ひとりも傷つけないなんて、とても言えません。

しゃみめは、ただ、そっと出します。
食べてもらえなくても、目を背けられても。
しゃみめにできることはこれだけだと思えば、ただ、そっと出すのです。

美味しそうに食べてくれる人もいます。
苦しそうに食べてくれる人もいます。
一瞥くれて、席を立つ人は……、まだいませんが、いたっていいのです。

創作者は、出す。
体験者は、受け入れる。
畢竟、これだけです。
嫌ならもちろん、離れていいのです。


ただね!
ハッキリと言いたいことがあります!!

創作者は、誰かを傷つけるためだけにモノを作ってはいけません!!!!

作ったモノが誰かを傷つけることがあってもいいのです。
それは避けられません。
でも!
傷つけようとして傷つけてはいけません!!
人を楽しませるのが、創作者の矜持です。
例えば、自称音楽家が「人になにがなんでも影響を与えたい」からと、黒板をガラスでひっかいて会場にいる全員をのけぞらせて不快にさせたからといって、これを音楽といえるでしょうか?
確かに影響は与えたでしょう。
でも、この音を聞きたい人がいるでしょうか?
この音を聞いて、喜んだ人がいるでしょうか?

自称音楽家がしたことは「音楽」ではありません。
肥大した自意識を、他者に影響を与えたいという我欲を、ただ叩きつけたというだけです。
他者に影響を与えたという実績を、何者かになりたいという欲望を、ただ吐き出しただけです。
これを創作と呼ぶことはできません。

これは、SNSにバイトテロを発信する愚かな若者と同程度の自意識です。
しゃみめは、こうした加害を許容しません。

創作は、誰かのために作るべきです。
自分でもいいし。
大切なひとにでもいいし。
世間に向けてでもいいのです。

ですが、それは加害であってはならないのです。
加害かどうかは、結果だけ見ても判然としません。
ただそれでも、はっきりと判る加害があります。
あなたが、創作者が「加害したい」と思って出した創作物は、まちがいなく加害だということです。

誰に言い訳もできない、あなた自身の中に、はっきりと自覚があるなら。
それは加害であって、創作ではないのです。


強くもの申しましたが、これは自戒です。
しゃみめの欲が肥大して、加害をばら撒く魔物になり果てた時は。
どうかどなた様でもかまいません。
しゃみめを成敗してくださいましね。


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