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『夢十夜』「第三夜」における罪の意識と夢の関係 ––意識と無意識のはざまで––

目次
はじめに
1. 盲目の子どもの正体
2. 鏡の役割
3. 罪に対する葛藤
おわりに

はじめに
 夏目漱石(1867-1916)は、明治末期から大正初期にかけて活躍した近代日本文学の代表的な小説家である。彼は前期の『三四郎』(1908)、『それから』(1909)、『門』(1910)といった作品では個人の自立に迫ろうとしたが、後期の作品である『行人』(1912)や『こころ』(1914)では近代日本人における自我の確立を分析し、その利己主義を考察した。漱石の代表作の一つである『夢十夜』は、1908(明治41年)に朝日新聞に連載され、同年に発表された作品である。『夢十夜』には十の夢が書かれており、第十夜を除いて全て自分が夢を語る形式である。
 本論で扱う「第三夜」は、自分が背中に負ぶった目の見えない子どもに導かれ、森の中の杉の木にたどり着いた途端、百年前の盲人殺しをはっきりと思い出すという話である。なぜ子どもは自分に盲人殺しを思い出させたのか。自分はなぜこのような夢を見てしまったのか。夢は自分の記憶や感情と強く結びついているものである。「第三夜」という悪夢は、自分の過去の罪の意識によって引き起こされたのではないだろうか。したがって「第三夜」における子どもの役割に着目し、「第三夜」に潜む自分の罪の意識に迫りたい。
 夢の内容は夢を見ている自分では決定することが出来ないものである。しかし、夢を構成する要素には、自分が対象に関して抱いている感情が投影されることが多い。つまり無意識に構成された夢には、過去の罪に関する意識的な自分の解釈が含まれている。本論では、「第三夜」の夢は記憶をどのように構成し、自分は過去の罪をどのように解釈したのかを明らかにする。

1. 盲目の子どもの正体 

 「第三夜」の夢を構成する要素として最も重要であるのは、盲目の子どもである。なぜなら盲目の子どもは自分を罪の自覚へ導き、「第三夜」という夢から自分を醒めさせる要因となった存在であるからだ。「第三夜」の最後に

「おれは人殺しであったんだなと始めて気が附いた途端に、脊中の子が急に石地蔵のように重くなった」(夏目漱石『夢十夜 他二篇』、岩波文庫、1986年、18頁。)

 という一文がある。つまり自分は罪を自覚した途端に盲目の子どもの重みに気づいたのである。この文において、重くなったのは本当に盲目の子ども自体の重さなのだろうか。第一節では盲目の子どもの重みに着目することによって、盲目の子どもの正体について考察する。
 まずは盲目の子どもの重みについて言及されている箇所を引用したい。「第三夜」冒頭で盲目の子どもは自分に

「御父さん、重いかい」 (上掲書、15頁。)

と尋ねている。子どもは

「今に重くなるよ」 (上掲書、15頁。)

と答えていることから、疑問を投げかけたかったのではなく、まだ重くないことを確認したかったということがわかる。つまり、盲目の子どもは自身の重みについて自覚的であったということだ。
 話を本節冒頭の引用文に戻すと、自分が人殺しであったという自覚が想起させる感情は、やはり罪悪感であろう。人殺しの自覚が芽生えて初めて脊中の子が重くなったということは、盲目の子どもの正体は罪の意識だったのではないか。盲目の子どもの正体が罪の意識ならば、自分が罪を自覚した途端に重みを増すのは当然のことであり、「第三夜」冒頭で自身がやがて重くなることを予言することもまた可能であろう。
 盲目の子どもの正体が罪の意識であることを裏付ける根拠としては、盲目の子どもの口調も有効である。盲目の子どもは、自分と対等な言葉つきで予知をするかのように自分を導く。自分の言葉を借りれば、盲目の子どもは

「声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等」 (上掲書、14頁。)

なのである。自分はまだ気づいていないものの、盲目の子どもの正体は罪の意識であり、自分から生まれ出たものなのだとすれば、自分と対等の言葉遣いをしているのは普通のことである。したがって盲目の子どもの正体は罪の意識であるといえる。
 ではなぜ罪の意識が自分の子どもとして夢に現れたのか。罪の意識が盲目の子どもとして現象した理由を明らかにする手掛かりは、盲目の子どもが子どもという性質を伴っていることが挙げられる。罪の意識とは自分から生まれ出るものであり、子どももまた親から生まれ出るものであるためである。自分は、自分のなかから罪の意識を子どもとして取り出すことで、自己と罪の意識を乖離させようとしたかったのではないか。そのように仮定すると、自分が

「こんなものを脊負っていては、この先どうなるか分らない。どこか打遣ゃる所はなかろうか」(上掲書、15頁。)

 と考えた理由にも説明がつく。自分は、自分から取り出してもなお脊中にまとわりつく罪の意識を、完全に自分からなかったことにしたくて仕方がないのだ。つまり、盲目の子どもは自分が生み出したということと、罪の意識は自分から生まれたという二つの事実が重なった結果、罪の意識の対象である被害者と、罪の意識自体が同化して夢に現象したのだといえよう。
 第一節では、自分を殺害現場まで導き、百年前の殺しについての記憶を呼び起こす奇妙な盲目の子どもの正体について分析した。「第三夜」のなかで、自分は罪の意識に抗うことは出来ない。早く捨ててしまいたいと願うほど殺害現場に近づいてしまい、記憶が鮮明になっていく。自分を無意識のうちに森の中の杉の根の処まで導いていたのは、罪の意識であり、ほかならぬ自分自身であったのだ。

2. 鏡の役割
 第一節では、盲目のこどもの正体が自分の罪の意識であることを明らかにした。本節では、罪の意識の現象としての盲目の子どもが果たす役割について論じたい。自分は盲目の子どもについて

「自分の過去、現在、未来を悉く照して、寸分の事実も洩らさない鏡のように光っている」 (上掲書、17頁。)

と述べている。自分が殺しの事実を思い出せないことに対して、盲目の子どもが寸分の事実も洩らさない鏡のような役割を果たすことができるのはなぜだろうか。
 この問いに答える前に、まず盲目の子どもが持つ鏡のような役割がどのようなものであるかを考えたい。前述した引用部分によれば、鏡が映すものは自分の過去、現在、未来である。「第三夜」のなかで盲目の子どもは自分を杉の根まで誘導し、自分に過去の殺人を自覚させたことから、鏡の役割とは、過去、現在、未来を自分に認識させる役割のことであるといえる。
 つぎに「第三夜」における過去、現在、未来とは、それぞれどの時点を指すかを分析することによって、盲目の子どもが自分に対して具体的に何を認識させるのかを検討する。まず、自分が盲目の子どもの

「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」 (上掲書、18頁。)

という言葉によって

「一人の盲目を殺したという事実が、忽然として頭の中に起った」 (上掲書、18頁。)

ことから、過去とは百年前の殺しのことだとわかる。現在とは、「第三夜」のなかで盲目の子どもが自分に向かって予言めいた言葉を用いて、自分を杉の根本まで導くことから、まさに「第三夜」という夢を見ている時点そのものだということがいえる。未来とは、「第三夜」の結末が主人公の罪の自覚で終わっており、かつこの結末が「第三夜」の話の起承転結の転の部分にあたることに着目すると、罪を自覚したその後、すなわち夢から醒めた後だと考えられよう。
 冒頭の問いに話を戻すと、盲目の子どもが鏡のような役割を果たすことには、罪の意識が関係しているといえる。前節で述べた通り、「第三夜」では、罪の意識は盲目の子どもとして現象している。罪の意識は、罪の記憶があって初めて存在するものである。したがって盲目の子どもは、罪の意識はもちろん、罪の記憶も有していると考えられる。
 しかし、ここで一つの疑問が浮かび上がる。鏡の役割を果たすはずの当の盲目の子どもは、百年前の盲人殺し、すなわち過去の時点で死んでいる。盲目の子どもは、なぜ存在しないはずの現在と未来で鏡の役割を果たしているのだろうか。
 その根拠も、やはり盲目の子どもが罪の意識と同化して現象していることにある。罪の意識は、自分が盲目の子どもを殺したことによって生まれた。つまり、盲目の子どもが死んだと同時に罪の意識が誕生したのである。殺害の対象としての盲目の子どもは百年前にすでに死んでいる。しかし、「第三夜」では罪の意識もまた盲目の子どもとして現象しているので、盲目の子どもは過去だけでなく、現在も鏡のように照らすことが出来るのだ。未来を照らすことが出来る理由については、「第三夜」という夢の終わりが罪の自覚であることに着目したい。罪を自覚するということは、自分の心のなかに罪の意識が沸き起こるということである。第一節で述べた通り、「第三夜」において、罪の意識は盲目の子どもとして現象している。すなわち、罪の自覚とは、盲目の子どもとして乖離していた罪の意識が自分のうちに再び戻ることを意味するとはいえないだろうか。「第三夜」のなかでかつて盲目の子どもとして現象していた罪の意識は、自分のなかに回帰することで、自分の未来を指し示すことが出来るのである。
 第二節では、盲目の子どもが自分の過去、現在、未来を鏡のように指し示すことが出来る理由について論じた。盲目の子どもは罪の意識として現象しているために、過去の殺しの記憶を持ち、現在において自分に罪を自覚させることが出来、夢から醒めた未来においても自分と共に在ることが出来るのである。次節では、盲目の子どもがなぜ鏡のような役割を果たすのかを明らかにすることによって冒頭の問いについて答える。

3. 罪に対する葛藤
 「第三夜」の夢は記憶をどのように構成し、自分は過去の罪をどのように解釈したのか。本論の問いはこのようなものであった。そしてその問いを明かすために、第三節では、第二節で触れた盲目の子どもの鏡のような機能に着目し、「第三夜」という夢がどのように構成され、自分は過去の罪をどのように解釈したのかについて答えを出したい。
 はじめに提示した問いに答えるにあたって、本論では百年前の盲人殺しが実際の事件ではないこととしたい。なぜなら、六つになる子を殺した百年後に自分が生存しているという設定には無理があるからだ。事件を起こした百年後に六つになる子を持っているとしても、それはやはり設定としておかしい。しかし夢はなにも過去の体験を回想するだけのものではない。自分が過去に盲人殺しをしていなくても、「第三夜」の夢を見ることはあり得るのだ。したがって本論では百年前の盲人殺しが実際の事件ではないとする。
 それならば、自分はなぜ「第三夜」の夢を見るに至ったのだろうか。その手掛かりは盲目の子の鏡のような役割にある。「第三夜」で盲目の子どもは、森への道順を自分に示す。自分は盲目の子どもに恐怖し、躊躇しながらも従う。途中、自分は盲目の子どもの「丁度こんな晩だったな」という発言について問い、「何がって、知ってるじゃないか」と答えられると、自分は「何だか知っているような気がしだした」。しかし、過去に盲目の子どもを殺したのは他ならぬ自分であるので、当時の夜が夢のなかの晩のようであったことを自分は知っているはずである。つぎに森へ着き、盲目の子どもに杉の根を示されると、「自分は覚えず留った」。「何時しか森の中へ這入っていた」。「慥かに小僧のいう通り杉の木と見えた」。これらの発言からは、自分が森のなかの杉の木の下まで来てしまったのは、盲目の子どもの誘導によるものだという強調の意志が感じられる。そして「御父さん、その杉の根の処だったね」と再度確認されると、「『うん、そうだ』と思わず答えてしまった」。さらに、「思わず答えてしまった」という発言からは、まるで自分はそう思っていないが、子どもがそう言うのでそう答えてしまったとでも言いたいようである 。(上掲書、17頁参照。引用部の傍点は筆者による。)
 盲目の子どもの発言と自分の対応を振り返ると、道順はもちろん自分の記憶の内容、意志までも盲目の子どもの鏡のような役割に操られているかのような表現が見受けられることがわかる。しかし夢を見ている主体は自分であり、「第三夜」という夢を構成しているのはあくまで自分である。つまり、自分は盲目の子どもに過去を鏡のように映されたために、なかば無意識のうちに殺しの記憶を思い出したというように現在の事実を仕立て上げたかったのだ。したがって、盲目の子どもは、自分の無意識性を強調するために鏡のような役割を果たすと考えられる。
 しかし、自身の無意識性を強調している盲目の子どももまた自分自身であることにほかならない。なぜなら、第一節で述べた通り、盲目の子どもは自分の罪の意識が乖離して現象した存在であるからである。罪の自覚へと導く盲目の子どもと被害者性を強調しようとする父親としての自分は、どちらも自分自身なのである。この事実からいえることは、「第三夜」は罪を自覚する必要性を感じている自分と、罪から目を背けたいという自分の葛藤を表した夢だったのではないかということである。そうすると、「第三夜」は、罪の意識に接近しようとする自分と罪の意識を回避しようとする自分が対立するというような構造をなしているといえる。この構造により、主人公による罪の自覚の必要性を訴える自分と贖罪を免れたい自分の間の葛藤があらわになるのだ。
 この葛藤は、最終的に自分が盲目の子どもの重みを自覚することで終わりを迎える。なぜなら、盲目の子どもの重みを自覚することは、罪を自覚することであるからだ。前述したように、「第三夜」において罪の自覚は盲目の子どもが自分に回帰することを意味する。つまり、罪の自覚によって乖離していた自己は再度統合されたのである。
 自分に罪を自覚させるために杉の根本まで誘導する盲目の子どもと、その鏡のような役割に受け身の姿勢を取ることで無意識性を強調する自分という「第三夜」の構造だけでは、「第三夜」が自分の罪に対する葛藤の夢だという主張はいまひとつかもしれない。しかし、そもそも自分が罪の意識を盲目の子どもとして現象させたのは、罪の意識を忘却したかったからである。このことも「第三夜」が自分の葛藤を表しているという根拠として成立する。なぜなら、罪の意識を忘却するために誕生させた盲目の子どもが、結果として罪を自覚させる存在になってしまっているからである。盲目の子どもという存在の矛盾こそが、自分の罪の意識に対する葛藤を表しているのである。
 第三節では、第二節で触れた盲目の子どもの鏡としての役割の意味に着目し、「第三夜」という夢がどのように構成されているかについて論じた。「第三夜」のなかで、親としての自分と盲目の子どもとしての自分は、罪の意識に接近しようとする自分と罪の意識を回避しようとする自分の対立という構造を表している。この構造は、すなわち、罪の自覚の必要性を訴える自分と贖罪を免れたい自分の間の葛藤を示していたのだ。

おわりに
 はじめに定義された問いは、「第三夜」の夢において、自分は自らの罪をどのように解釈し、「第三夜」を構成したかということであった。結論を出すにあたって、これまでの分析をひとまず振り返りたい。「第三夜」において、自分は自己から罪の意識を乖離させるために罪の意識を盲目の子どもとして現象させた。盲目の子どもの持つ鏡のような役割は、自分の過去、現在、未来を認識させることであった。すなわち、盲目の子どもは、過去の罪の記憶に基づいて「第三夜」という現在で自分を罪の自覚まで導き、自分の心のうちに回帰することで自分の未来をも映し出すのである。自分は盲目の子どもの鏡のような役割にあくまで受け身の姿勢で従い、自らの無意識性を強調する。
 これらの分析において重要なことは、盲目の子どもとして現象している罪の意識と夢を見ている主体としての自分は、もともと一つの存在であったということだ。盲目の子どもは、自分を罪の自覚へと誘い、最終的に自分に回帰する。夢を見ている主体としての自分は、次第に鮮明になる罪の意識に無意識を装って抗いながらも、遂には罪を自覚し、罪の意識を背負って生きることになる。
 したがって、「第三夜」は乖離した自己を再度統合するまでの過程を表した夢なのである。その過程には、罪の自覚の必要性を感じる自分と罪を意識することから逃れたい自分との間の葛藤が見受けられる。この葛藤は、罪の意識に接近しようとする自分と罪の意識を回避しようとする自分が対立するという構造をとって「第三夜」に表れる。罪の意識を盲目のこどもとして現象させることによって、自分は罪を自覚するか、罪から目を背けるかという葛藤を「第三夜」に投影したのである。
 さらに、この結論によって浮き彫りになった問題がある。その問題とは、なぜ葛藤の結果、自分は罪を自覚することを選んだのかということだ。「第三夜」のなかで、自分は盲目の子どもに導かれるかたちで罪を自覚したが、盲目の子どもの誘導に抗うことも可能であったはずである。しかし、自分は葛藤から脱却し、罪の自覚を受け入れた。何が自分を葛藤から脱却させ、罪の自覚を選択させたのか。この問いを今後の課題としたい。

参考文献
夏目漱石『夢十夜 他二篇』、岩波文庫、1986年。

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