社会的養護に特化したメディアをはじめます。

はじめまして

こんにちは。「社養自立らぼ」考案者の野崎と申します。
第一回目の投稿でどきどきしてます。
はじめての投稿なので、なぜ急に「社養自立らぼ」を爆誕させたのか、その意図と、このメディアを使って何を実現していきたいかを書きたいと思います。

そもそも社養ってなに?

そもそも社養って何?と思われている方が大半だと思うのでまずはその言葉の説明をしたいと思います。社養とは会的護の略です。
社会的養護というのは、文字通り「社会で養い、護る(まもる)」という意味で、もう少し言葉を足すと、子どもを社会で養い護るという意味です。「子どもは家族・家庭だけによって育てられるものではなく、地域や社会で育てていくものだ」という考え方で、とくに何らかの理由で家族というものに頼れない子どもたちを社会で護って育てるという概念であり、そのためのしくみ全般を指します。
とはいってもちょっとまだ抽象的なので、感覚的にイメージしやすい言葉を出してみます。
児童養護施設。里親家庭。
聞いたことがある方もいるのではないでしょうか?
他にも色々種類はありますが、代表的なのはこの2つです。
日本では、なんらかの理由で親に頼れない子どもたちを主に
①児童養護施設などの施設での養護(≒保護)
②里親家庭などの家庭での養護
のいずれかで守り、育てています。
なんらかの理由、というとこれまた抽象的ですが、最近はやはり虐待が保護理由の大部分を占めているそうです。
とはいえ、虐待以外の保護理由ももちろんあります。
例えば
・親が犯罪を起こして刑務所にいる
・親に精神疾患があり、子どもを育てられる状況ではない
・親が体の深刻な病気になって子どもを育てられない
・経済的に困窮して、とりあえず親だけでも生活を立て直すために一旦子どもと分かれて暮らす
・ワンオペ育児で限界が来た
・望まない妊娠
・親が離婚調停の親権争いでめちゃくちゃ揉めていて、両方が親権を主張して子どもが板挟みになっている
・親が海外からの移住者で日本での生活にうまく適応できなくて子どもをおいて国に帰った…etc
これは私がこれまで実際にきいたことのある保護理由です。
結構、いろいろ複雑な事情がありますよね。

私はその社会的養護について少し前までTwitter(現X)で発信をしていたのですが、社会的養護と毎回打つのが単純に面倒だったのと、Twitterの140文字という制約のなかで言いたいことを完結させられるように便宜上社養という言葉をよく使っていました。
ですので、社養という言葉は私とそのまわりの人しか使っていない極めて限定的な言葉なのです。でも、なんだかんだ語感がいいのと、個人的に好きな作家である太宰治の「斜陽」を連想するということで気に入っています。

社養(社会的養護)を取り巻く課題とそれについての考え

そもそも日本で社会的養護という言葉が活発に使われ出したり、その内容の充実にむけて本格的に国が動きはじめたりしたのは1990年代ごろで、制度としてもまだ歴史が浅く、色々課題があります。それについてもちょこっと説明します。

社養(社会的養護)には、大きく3つの段階があると個人的に考えています。1つ目が社会的養護に世話になる前の段階、2つ目が社会的養護のなかにいる段階、3つ目が社会的養護を出た後の段階です。
私自身も6歳から成人するまで社会的養護に世話になった人間なので、この3つの段階を経験しているのですが、一番苦労したのは実は社会的養護を出たあとの生活です。
社会的養護を出る、これには2通りの解釈があります。
1つは、もといた家庭に戻るという意味、そしてもう1つは社会的養護を経て自立するという意味です。もといた家庭に戻るってどういうこと?と思われた方もいると思いますが、社会的養護を必要とする子どもたちは、何も虐待だけが原因で保護されているわけではないので、もといた家庭に戻ることが保護の最終目的だったりすることもあります。これを家庭復帰といいます。この家庭復帰にも色々な問題があるんですが、それは別の記事で書きます。

私は、6歳から成人するまで里親家庭だけを経験して育ちました。
高校を卒業して、現役で4年制の大学に進学したため、本来ならば、ストレートで卒業する22歳まで里親さんの家で過ごすことができる、はずでした。
細かいことはまた別の機会に書きますが、結果的に予定よりも2年早く急に自立することになりました。それまでの社会的養護で「保護される」「支援される」のが常の状態から、急になんの支援もない状態(あたりまえっちゃあたりまえ)になってしまって、そこではじめて自分が社会的養護というシステムにどれだけ(無意識に)甘えていたか、どれだけ「それありき」な生活であったり、マインドだったりをしていたかを思い知らされました。

「保護される」「支援される」のが常の状態に慣れっこになってしまっていて、急に社会全体が自分に冷たくなった、と感じたり自分はかわいそうなんだと被害者ぶってみたりして、そのマインドがよくなかったんだなと今振り返れば思います。

でも、それは私だけがそうだったんじゃなくて、割と社会的養護出身者全般に共通する課題なのではないかと思います。「保護される」「支援される」のが常の状態から急にそれがなくなると、どうやって助けを求めたらいいのかも知らない、自分で自分の課題を解決できない、なんなら自分で自分の課題に気づくことすらできないだいぶ頼りない人間が生まれてしまいます。
また、保護理由が虐待などであった場合、トラウマのフラッシュバックやPTSDなど精神的にハンデを抱えている人も多く、
「保護される」「支援される」に慣れっこ×本人の意思ではどうにもならない精神的な脆弱性(もろさ)をもつ、の合わせ技だった場合、もはや一人で問題を解決することは不可能なのではないか、と思うような状態に追い込まれます。
それで、基本的な生活基盤を築けないような若者を私は何人も見てきましたし、なんなら一時期は自分がそうなりそうでした。

自分の経験を分析して、後輩たちの力になりたい

結論から言ってしまえば、自立からちょうど4年が経った今、本当に大変でしたがようやく、金銭的にも精神的にもある程度自立した生活ができています。これは社会的養護出身者としてはそこそこまれなことなので、なぜ自分がそうなった、そうなれたのかについて客観的に分析し、何が自分をそうさせたのかについて真剣に考えてみることで、同じようなことに悩む後輩へのサポートや、またそれを支援する人の参考になるのではないかと考えました。

「実は社会的養護のことを知らない人のほうが、この問題を解決できる可能性を秘めていること」を知ってもらいたい

そして、その分析結果をここで知見として集めて共有することで、社会的養護に直接関わりのない人にも少しでもこの社会問題を知ってもらって、この課題の解決に向けて一緒に取り組んでもらえたらうれしいなと思います。
なぜなら、(これもまた今度詳しく書きますが、)この問題に関して一番有効で、手っ取り早くて、かつ効果のある解決策を提示できるのは、社会的養護のことなど全く知らない人だと思うからです。
この答えが明確な正であることは、自分が一番知っていますし、これは確信を持って断言できます。
「え?どゆこと?」と思った方はぜひ、これからの発信を楽しみにしていてください!

それではこれからよろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?