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【短編小説】カサブランカと深い霧

クアラルンプール国際空港の到着ロビーで、ふいに鼻の奥に濃厚な花の匂いを感じて思わず息を止めた。

スーツケースを引く腕を緩め、ゆっくりと立ち止まると、わたしはあたりを見回した。
キャメロンハイランドの深い霧、どこまでも続く紅茶畑、ホテルの部屋、あの気配。
腕に泡立つものを感じて、思わず両腕を抱きかかえる。

その時、わたしを呼ぶ声が聞こえた。彼は笑顔で手を振りながら近づいてくると
「遅かったね、大丈夫?荷物出てこなかった?」
こちらを覗き込むように、少し姿勢を下げて微笑みながら言った。
「ううん、大丈夫。ちょっと疲れただけ」
そう言いながらわたしは安堵感に包まれていた。この人が来てくれれば大丈夫。

彼はすぐにスーツケースを持つと、「こっちだよ」と言って歩きだした。
広い背中が頼もしい。
「東京より暑い?」
「うん、やっぱり暑いね、空気の濃度が違う気がする」

空港の駐車場には沢山の車が停まっていた。ガソリンの臭いが東京よりも強い。
Protonを見ると、マレーシアに来たなと思う。
「車、変えてないんだね」
「うーん、なんかこっちの車に乗れっていう上からの指示でね」
彼はそう言うと助手席のドアを開けた。
「さぁ、どうぞ」

海外生活が長いからなのか、もともとそういう家庭に育ったのか、スマートにこういうことをする人だった。
日本に居た時も、そういえばそうだった。
初めて彼の車に乗ったのは20歳の頃。彼は大学の演劇サークルの先輩で、同じ方向へ帰るわたしを送ってくれたのだ。

最初はとても驚いて、自分が彼の特別な存在なんじゃないかと思ったものだった。
でも、彼にそのつもりがなかったことを、わたしはその数日後に知る。
大学のキャンパスで髪の長い美しい女性と歩いている彼を見たとき、その笑顔がわたしに向ける笑顔の種類とは全く別のものだということは、まだ経験の浅いわたしでも分かった。

追記

2020年9月20日に販売する『あいのほん』に収録しますので、投げ銭方式ではなく有料noteに変更しました。
『あいのほん』は発売日以降にストアタブからもお求めいただけます。

2020年9月2日 

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