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自分の心に従って生きることを教えてくれた先生


これまでの人生で忘れられない先生は?


そう聞かれたら、まず思い浮かぶ人がいる。
それは、高校の頃のクラスの担任。毎年クラス替えがあったにも関わらず、3年間、ずっと私の担任だった先生だ。

その先生は、全く教師っぽくない人だった。
それもそのはず、こんな人生もありなのか!というような、側から見れば驚きの人生を歩んでいる人。私に新しい視点をくれた人でもあった。


先生は、ミュージシャン→塾講師→高校教師、となんとも不思議なキャリアを築いていた。
音楽の道では一花咲かせた有名人なので、ここでは控えめに書かせて頂くが。当時、海外で成功した数少ない日本人ロックバンド、といわれている。

30歳になったら音楽はやめよう、と仲間内で決めていたそうで、その年を迎えると、サッと引退。
その後は塾講師になり英語を教え始めるも、塾に来る高校生の英語のレベルに愕然。

「こんなこともわからないの?学校で一体何を教えているの?」

教員免許を持っていた先生は、意を決して高校で英語を教えることを決意。給与が1/3に減る決断だったそうだが、志を持って高校教師になる道を選んだ。そんな人だ。


元々5科目の中で英語が一番好きな私であったが、先生の授業を初めて受けたとき、感動したのを覚えている。

先生は、受験英語のような構文を「丸暗記するな」と常日頃から言い、ひたすら英語のロジックを教えた。日本語への訳し方など気にせず、どんどん文章を読んで、ひたすら文構造に慣れていくような、そんな授業の繰り返し。英語を読んでそのまま意味が入ってくるまで、何度も何度も同じ文章とにらめっこ。復習をし続けるうちに、ぐんぐん英語の成績が伸びて、学習するのがもっと楽しくなっていった。高1の頃は英語の予備校にも通っていたが、先生の教育方針の方が身になっていることを実感し、行くのはやめた。


そんな英語に対して熱血教師の先生だったが、私が一番影響を受けたのは、先生の生き方そのものだったように思う。

あれは高校2年生のとき。私は進路が決まらず文理選択で悩んでいた。家族は全員理系、「女の子も手に職を」と小さい頃から親にさんざん言われて育ってきた。英語が好き、世界史が好き。憧れの職は国際公務員。途上国で活動している人々にずっと畏敬の念を抱いてきた。しかし、何を活動の軸にしたいかまではなかなか思い描けず、科目と職種がどうしても繋がらない。「文理選択=将来の職を決定させねばならない」くらいの勢いで思い悩んでいた私は、あるとき先生にふと漏らした。


「理系に進んでおいた方がその後の選択肢が増えそうだからその方がいいかもなあ…」

文転はその気になればいつでもできる、と言ったような、文系に対するなめた考えも正直あった。しかし。


『お前、バカヤロー!』


間髪入れず先生にそう言われ、「え、なんで?」とびっくりした。なんで私怒られてるの?意味がわからなすぎてキョトンとしてしまった。

『こっちの道のほうが無難かしらとか、そんな意味わからない理由で選ぶな。何が好きかとか、そういうことをもっとよく考えろ。もっと自分と向き合え。』


向き合っても向き合っても、答えが出ないんだよ〜…。
当時はもう半べそだったが、先生に喝を入れられて、もう一度よく考えた。ずっと職種と結びつかなくて悩んでいたけど、考えても分からないことの決断を急ぐのはやめることにした。

「何をしているときが楽しいか」をもっと大事にしてもいいのかも。

遂にはそう決断し、家族の誰も歩んだことのない、文系の道へと進むことにした。どんな人生になるのか、検討もついてなかったけど、それが当時の自分に一番合った選択だと思った。



実は、先生に止められた選択がもう一つある。
それは、高3のときの三者面談。当時の進路を両親が心配し、2人共参加したので、実際には四者面談になったのだが。

「海外の同世代と戦えるだけの語学力をつけたい!もっと世界を見たい!海外で学びたい!」

海外の大学受験を斡旋してくれる機関を色々自力で探しては親を連れて説明会に行った。文理選択を決めた頃から、日本の大学を受験する気持ちはなくなっていた。だが、周囲には留学経験者がおらず、自分1人で得られる情報はかなり限られていた。英語が得意な方だったとはいえ、海外の大学にストレートで入学できるほどの英語力はなかった。この不安を相談できる相手を、私は心の底から欲していたし、先生に期待していた部分でもあった。

『これをやり遂げたい、という強い想いが無いのであれば、日本の大学に行ってから留学に出ても全く遅くないのではないでしょうか。海外に出て行くことはまあできるけれども、戻ってくるのはそう簡単ではないことです。特に、日本が学歴社会なのは否めないですから、よく分からない大学に入った場合なども考えると…何も今そんなに急いで外に出なくても…(略)』

先生の言葉を聞いて、両親は安堵したが、当時の私はショックだった。20代の10年間を海外で過ごした先生だけに、もっと色々な選択肢を提示してくれることを期待していたから。海外に出てみないとわからないこともたくさんあると思ったから。でも、私の身の回りで一番、海外生活の良い面悪い面を熟知している先生が言うのだから、その通りなのかもしれない。先生と通じ合った両親を見て、最終的には日本の大学を受験することに決めた。


…それから5年後。

英国の大学院に合格した私は、なんとなく先生に報告したい気持ちに駆られ、母校に電話をかけた。

『よお、〇〇!久しぶりだなあ、留学でも決まったのか?』

まだ何も説明してないのに、二言目に「留学」と言われ、驚いた。特段印象に残る生徒ではなかったと思うが、それでも先生は私のことを覚えていてくれた。ただそれだけのことが嬉しかった。

それからは仲良しメンバーも誘い、日本にいる間、何度か先生とご飯に行った。先生の誕生日には、皆んなで還暦祝いなんかもした。先生はあまり人に干渉してこないタイプの人で、私も誘う割には自分のことを話せず、結局再会してもお互いに大した話はしなかったけど。
最後に会った年の年賀状には、こう書かれていた。

『私もまだまだこれからです』


時々、先生のあの言葉がなかったら、一体どんな人生になっていただろうと想像するときがある。
それはそれで、何とか生きていけたんじゃないかな、なんて楽観的に思う自分もいたりするけれど。

先生に出会うまで、自然と、周囲の期待に沿うような選択をして生きていた私。一般的な「成功者のレール」に従って生きる道しか知らなかったけど、初めて自分の心の声に従う決断ができたのは、当時の先生のあの「バカヤロー」があったからだと思っている。

大きな変化を伴う決断をする際は、常に不安もついて回るもの。なんだかんだ、悶々しながらもその場に留まる人が多いこの世の中で、自分なりの信念を持って華麗にキャリアチェンジしてきた先生は最高にカッコいい。

正直今でも悩みが尽きない私だけれど、自分で納得した選択をして生きていることこそが、私にとっての「成功」。少なくともそれが今の自分にはしっくり来ている。

まだまだ先生には到底及ばないけれど、先生に出逢えたことは間違いなく私の人生における幸運の一つ。これからもずっと、先生は私にとってのいちロールモデルであり続けるんだろうな。


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忘れられない先生

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