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無条件に受け取ることの難しさ

夜、お風呂から上がると、「あなたとの会話に疲れた」と妻。「つかみどころのない会話に疲れた」と。

「またやってしまった」と自省するも、その原因が明確にはわからない。

だが、このやりとりは過去にも何度かしているぞ。

会話の内容は、子どもたちが抱えがちな将来への不安に対して、自分で乗り越えていけるようなサポートをしていきたいという妻の話に、「自分にとって不安な感じってどんなもんだったかな」と回顧する夫という構図。まったく妻の話を受け取っていない自分の姿が浮かび上がる。

感情が絡む話題を受け取るとき、つい反射的に「自分にとっては」という視座に立ってしまうのは、私の悪い癖。

まずは受け取ることが大事と頭ではわかっていても、無条件に受け取ることの難しさを痛感する。

相手の話に感情の問題が絡んできたときに、自分にとってその状況でその感情がわくかどうかを内観してしまうと、相手から見たときに、その内観している様子が留保に見えてしまうことがある。

自分としては受け取ったつもりで、その感情について思案しているのだが、どうやら相手にはそうは見えていない。

これは立場が入れ替わればよくわかることで、何かの出来事について「〜で不安だったんだよね」と話した相手に「うーん、不安かぁ」と考え込まれると、「不安に思っている自分がおかしいのかな?」と別の不安が脳裡に浮かんでしまう。

自己中心性という罠に絡めとられて、相手を不安定にさせることはもちろん本意ではない。できることなら、意図を受け取って、不安をゆるめるような何かを差し出せたらいいなと思う。

「自分だったらどうか」という視点から考えを進める前に、相手にとってそのことがどんな意味を持っているのかに集注して、相手にとっての負担を軽くするような応答をできるようになりたい。

「あなたにとってはどう?」と端を向けられたときに初めて、自分にとってはどうかを考えよう。

相手が求めていることは往々にして、議論ではなく、共感なのだから。


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