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自動車教習所 送迎マイクロバス車内ミステリー

*この記事は作者の実体験に基づいていますが、当時の記憶をもとに書かれていますので多少事実と異なる部分があると思われます


 私は大学2年生の時、免許取得のために自動車教習所に通っていました。そこは埼玉の比較的田舎じみた場所にあり、私の住んでいるアパートからは最寄りの教習所だったのですが、それでも距離はかなり離れていました。徒歩だと1時間半、自転車に乗っても30分はかかってしまいます。一度その距離を確かめるために休日に自転車に乗りその教習所まで走ってみたことがありましたが、行き着くまでの道は坂も多く、普段運動などしない私にとってはとても30分では到着できないとわかりました。これからの長い教習期間中、毎回自転車を使って通うことは私にとって不可能でした。しかし幸いなことにその教習所には教習生であれば使うことのできる送迎バスが出ていました。体力もお金もない学生にとってそれはとても重宝しましたので、私はほぼ毎回教習所に赴くためにそのバスを利用していました。今回書くのは、そんな送迎バスの中で起こったお話です。

 まず、私が自動車教習所に通うことになった経緯からご説明しましょう。群馬県の片田舎で生まれ育った私は『一家に一台自動車があるのは当たり前で、公共交通機関も少ないので地元民は車の運転ができることは必須である』と言った教えを幼少期の頃から言われ続けていました。少し成長した私はちまたで聞きかじった薄い知識で「あと10年もしたら完全自動運転システムが搭載された車が実用化されて免許なんて必要なくなる」と生意気にも両親に言いましたが、もちろん青二歳のたわごとになど耳を貸すはずもなく、「教習費用は出してやるからとにかく免許は取っておけ」と私に免許を取らせようとする両親の意思は変わらぬままでした。大学進学に合わせて大学の近くに一人暮らしを始めた私は、一年生の春休みの期間に周囲の自動車教習所を探し、最も近かったところに通うようになりました。そこで私はMT車免許を最安プランで申し込みました。なぜMT車かというと、私の両親が「軽トラは運転できるようになっておけ」と私に進言したためでした。先程も申しましたように私は群馬県の片田舎の出身ですので、農業を生業としている近隣住民の方が多くいたのです。私の父は農家の方々と多少ばかりのお付き合いもあったのでよくお手伝いにも行っていましたし、やはり農業関連の仕事をするときには軽トラックは必須と言ってもいい乗り物だったのです。幼少期の私は両親の「軽トラに乗れるようになれ」という方針に、私をこんな片田舎に繋ぎ止めようと企んでいるに違いないと少しばかりの嫌悪の念を抱いていました。しかし今になって考えてみると、もしかしたら地元の外に出てうまくいかなくても、最悪帰って来れば食いっぱぐれることのないように、という思いやりの気持ちがあったのかもしれません。最安プランを選択したのは、私が少しでも安い方を選んだ方が料金を支払う両親の負担が少なくていいだろうと余計な気を使ったからです。「たった数万円のために免許を取ることを遅らせることないのに」と両親からは言われていましたが、当時の私はその心遣いで少しでもいい格好をしようと考えていたのだと思います。この選択が間違いでした。最安値のプランは当然教習生としての優先順位は低く、私は実際に車を運転する技能教習の事前予約が全くと言っていいほど撮れませんでした。そのため、教習所のインターネットサイトを四六時中監視し続け、事前に予約をしていた他の教習生がその予約をキャンセルした空き時間を狙って予約の電話をかける日々を送ることになりました。いわゆるキャンセル待ちというものです。この生活は地味に辛いもので、生活の中で何をやっていても脳裏には教習予約のことが浮かびますし、暇さえあればスマートフォンで予約欄の『空』の字を探さなければなりません。教習期間というものがありますのでのんびりもしていられませんでしたし、両親からは教習所の進捗状況を時折尋ねられます。ですので、もしこれを読んでいらっしゃる皆さんがこれから運転免許を取ろうとお考えになっておられますなら、余裕のある方は料金にこだわらず早く卒業できるプランを選ぶことをお勧めします。二週間程度の免許合宿なるものもありますので、スピードを重視されるのであればそちらもいいと思います。おそらく免許合宿は二週間ずっと辛いでしょうが、最安値プランだと半年もの間うっすらとした辛さがまとわりつくことになります。

 それでは本題に入ります。最初に申しましたとおり私は教習所から出ている送迎バスを使っていました。いつも通り血眼になりながら教習所の予約欄の『空』の字を探し出し、なんとか予約まで漕ぎつけることのできたその日の技能教習を終え、帰りのバスに向かいました。その日は軽く雨が降っていましたので私は傘を片手に持ち、小さいマイクロバスに乗り込みました。その日は私の他に3人の教習生の方がそのバスに乗っていました。一人は女性の方で運転席の横の助手席に座っていました。この日のバスに乗っていた女性は彼女一人のみでした。マイクロバスには二列座る席があり、私は前の列の真ん中に座りました。私の隣の窓際の席には長身の金髪の男性が座っていました。その方を”金髪さん”とこれから呼ぶことにします。そして前から二列目にはガタイのいい、これまた長身の黒髪の男性が座っていました。以後、その方を”ガタイさん”と呼ぶことにします。

無題5

その日のバスの運転手はかなり饒舌な中年男性の方で、バスが出発する前から助手席に座る女性の方と楽しそうにおしゃべりしていらっしゃいました。私は人と会話をするのが得意ではないのでその空間に居心地の悪さを感じながらも、特に仲の良い人もおりませんでしたので自分から無理に喋ることもないだろうと思っていました。そして私たちをのせたバスは教習所を出発します。その時の私は、このバスの中で忘れることのできない恐怖体験をするなどと知る由もありませんでした。 


 教習所を出発してもなお、バスの運転手さんは助手席の女性の方と勢いそのままにおしゃべりをしていました。女性の方も会話をすることに長けているようで運転手さんの話にうまく調子を合わせ楽しそうにしていらっしゃいました。運転手さんが女性の方に「なんの種類の免許取ろうとしてるの?」と尋ねると、彼女はMT車の免許を取る予定だと答えました。運転手さんはその理由を尋ねます。女性の方は「実家が農家だから将来軽トラを運転してその手伝いができるように」お返答されました。私がMT免許を取るのとほとんど同じ理由です。やはり地方出身者がMTの免許を取る時には『実家が農家』という理由が介在しているのでしょうか。当然運転手さんは彼女に出身地を尋ねます。そこで彼女は朗らかに「群馬県です!」と答えました。まさかの私と同じ理由でMT免許を取り、同じ出身地の方と同じバスに乗り合わせてしまったのです。その後も運転手さんと女性の方は楽しそうにおしゃべりを続けていました。それに聞き耳を立てている傍ら、私は気が気ではありませんでした。いつ気さくでおしゃべりが大好きそうな運転手さんが後部座席に座る私に話を振ってくるかわからなかったからです。彼女との会話がひと段落した後、運転手さんが私に話の流れそのままに出身地でも聞いてきたらどうなるでしょうか。私はそこで咄嗟に適当な地名を言えるほどの知的さは持ち合わせていないので、つたない言い方で正直に「群馬県です」と答えるでしょう。それを聞いた運転手さんが「おっ、群馬県出身が二人もいるよ!」と盛り上がり、助手席の彼女と3人での会話が展開されかねません。そんなことになってしまったらその状況に耐えられる器量など私は持ち合わせておりませんので、もう二度とバスに乗るまいと考え決して運賃の安くはない市営バスを使ってそれからの教習所通いを続けることになるでしょう。そのような最悪の事態を想像し、それを危惧しながらどうか私にだけは話を振ってこないでくれと内心ビクビクしながら祈っていました。私の不安をよそに運転席と助手席の二人は群馬県の名産、下仁田ネギの話をしています。

私の祈りが通じたのでしょうか。運転手さんが私に話を振ってくることはありませんでした。その代わりと言ってもいいのか、運転手さんは私の後ろ側に座るガタイさんに向けて話し始めました。

運転手(以下「運」)「〇〇くんは野球の方はどうなの?ドラフト入りは確定みたいなものなんでしょ?」

最初、私は運転手さんが冗談を言っているのだと思いました。これだけおしゃべりが好きな方です。冗談の一つや二つは言ってもおかしくありません。内容も野球のドラフトなど、世代的にも頷けるものでした。しかしそんな私の考えはたやすく打ち砕かれることになるのです。ガタイさんは運転手さんの問いかけにこう答えました。

ガタイさん(以下「ガ」)「まぁ、多分そうでしょうね。でも万が一ドラフトにもれた時のために社会人のチームにももう内定が決まっていて…」

私は自分の耳を疑いました。どうやら運転手さんがおっしゃっていたガタイさんのドラフト入りがほぼ確定であることは事実だったのです。それはつまり私の後ろに座っている方が未来のプロ野球選手であるかもしれないということを意味していました。その後も驚愕する私を尻目に二人の会話は続きます。

運「〇〇くんはどこ大学だっけ?」
ガ「ええと、R大学です」
運「あぁ、そっか。ここから近いもんね。すごいだろ。彼、R大学野球部のエースでキャプテンなんだぜ」

運転手さんは助手席の女性にガタイさんの凄さをアピールしながら会話を進めます。彼女はそれについて「へぇ〜」や「すご〜い」といったありきたりな感嘆の返事を返していました。おそらく彼女は野球などに興味がないのでしょう。そして、何より驚くべきことはガタイさんが野球部で主将を務めているR大学とは私が通っている大学でもあったのです。この時点で私の懸念点がもう一つ増えました。もしこの流れに続いて私のことに話題が移ったらどうなるでしょう。私は聞かれたことに対し自分に都合の良いように瞬時に事実を変えるような聡明さは持ち合わせておりませんので、馬鹿正直に本当のことを話してしまうでしょう。プロ野球選手になることがほぼ確定しているガタイさんの後に話すことなど私には何もありません。何を言っても彼の前では私などイモムシ以下の存在ととらえられるでしょう。いえ、そんなことを言ったらイモムシに失礼ですね。出身地、そして通っている大学が同じ人がそれぞれ前と後ろに陣取っているマイクロバスの中。彼女繋がりの話題を避けたと思いきや、次は同じ大学に通う自分より遥か上のステージにいるガタイさんの話が展開されてしまった時、私はまさに前門の虎後門の狼の意味を実感しました。その後も運転手さんとガタイさんの会話は続きました。その内容はあまりにもスケールが大きすぎて私は細かいところまで覚えていませんが、社会人野球に入っても自分はスポーツマンとして今までの人生を送ってきたから社会人として振る舞える自信がない。でもプロの世界も厳しいことが当たり前だからそっちに行く不安もある。と自分のこれからの生き方について思うがままを話していました。私はガタイさんがプロ入りするという断片的な情報だけで彼の人生は順風満帆の美しいものであり、羨ましく思っていました。しかし、彼にも人並みに不安を抱え、一寸先は闇の未来を案ずる一人の若者でした。もちろん彼は天性の才能だけで今の立場を獲得したのではなく、たゆまぬ努力と必死の競走がそこにあったのはいうまでもないことです。しかしそんな彼でさえも私たちと同じように悩み苦しむ一人の人間であると改めて私は思いました。松本大洋先生の『ピンポン』の読後感にも似た感情を送迎バスの中で抱くとは予想もしていませんでした。二人の会話は終わらぬまま、ガタイさんの降りる駅にバスは到着しました。
 「ありがとうございました」
そう言ってバスを降りるガタイさんの大きな背中には、今までの努力を語る威厳と少しの哀愁のようなものが漂っていた気がします。彼は小雨の中、傘もささず駅の中へと消えて行きました。

  さて、ガタイさんが降りてしまった今、運転手さんは一体誰を標的にするでしょうか。助手席の女性とはもう十分に話されましたので、残されたのは私か、隣に座る金髪さんの二人のみです。おしゃべりが大好きな運転手さんが飽きて運転に集中する可能性もなくはないですがその望みは薄いと言っていいでしょう。バスが発車するや否や運転手さんの口が開きます。

運「ところでさぁ、若社長は今どうなの?」

若社長?一体何のことでしょう。この言葉が私に向けて発せられたものではないことは確かでした。私は若くあるものの社長ではないのですから。すると今まで黙って私の隣に座っておられました金髪さんが初めて口を開きました。

金髪さん(以下「金」)「まぁぼちぼちですね」

なんということでしょう。運転手さんが言う”若社長”とは金髪さんその人だったのです。この時の私はガタイさんがドラフト入りが確定しているということを聞いた時以上に驚愕しました。私にとってはプロ目前の大学生野球選手よりも私と同じくらいの歳である会社経営者の方が現実離れしたものだったからです。その後も運転手さんと金髪さんの会話は続きます。

運「お年寄りに電話してたんまり儲けてるの?手間かかって大変じゃない?」

運転手さんが何の躊躇もなく言います。彼は一体何を言っているのでしょうか。お年寄りに電話してたんまり儲けられる会社とは一体何なのでしょう。私の浅い知識しか詰め込んでいない脳みそはすぐさま”詐欺”の二文字を出力しました。私の隣には長身で金髪で社長で詐欺師かもしれない男が座っていました。しかしそう決めつけてしまうのは早計というもの。運転手さんは先ほども申しましたようにおしゃべりが大好きな様子ですので、これは単なる冗談かもしれません。運転手さんの問いに金髪さんが答えます。

金「でも今はAIがやってくれるんでそれほどでもないっすよ」

現代の詐欺師はAIを駆使しているんですね。果たしてこれは私の理解を超えた高度なジョークの応酬に過ぎないのでしょうか。しかし、淡々と答える金髪さんの口調からは決してふざけているような印象は受けませんでした。私はその時点で金髪さんは社長でないのではないかと疑うことはありませんでした。もしかしたら金髪さんは反社会的勢力に加担しているかもしれない。お年寄りに電話口で詐欺を働いている会社を営む彼を私はそう思っていました。バスが交差点の赤信号にはまり止まります。すると金髪さんが交差点に面していたくら寿司を指差して言いました。

金「あ、あれ。あのくらいの大きさの家をこの前買って…」

もうここまでくると何が真実かなど私にはわかりません。運転手さんは変わらない口調で尋ねます。

運「へぇ、やっぱり儲かってんじゃん」
金「でも僕が稼いだものじゃなくって、親に買ってもらったんですけど」

家族ぐるみだったとは。もしかしたら金髪さんの親御さんは道を極める組織の方かもしれない。そんな考えが頭をよぎります。くら寿司ほどの大きさを誇る家などいったいどれほど値が張るのか見当もつきません。全ての規模が違いすぎる会話がマイクロバスの中で繰り広げられており、私はそれを傍観することしかできませんでした。車内の出来事などはお構いなしにバスは進んでいきます。

 その後も金髪さんと運転手さんはそれはそれは楽しそうにお話しされていました。特に印象深かったお話の内容は金髪さんのお財布事情についてでした。今までの会話の中で金髪さんがかなり財産を持っていることがわかりましたから、私は興味津々に聞き耳を立てました。運転手さんが「今、お財布の中にどんぐらい入れてんの?」とプライバシーのかけらも配慮もない質問を口にすると、いよいよ金髪さんのお財布事情についての情報が姿を現し始めます。金髪さんがにこやかに答え始めました。

金「今は決済はほとんどカードで済ませてるので現金はそんなに持ってませんよ。でもこの前銀行のATMで車買うためにお金おろそうとしたら金額が多過ぎて引き出せなくて…」

ほう。ATMであまりにも多くの金額は引き出せないのか。そんな学びを得ました。今更免許を持ってもいない青年が現金で車を買おうとしていたことなど驚くに値しません。運転手さんは物怖じすることなく聞きます。

運「え、いくらくらい?」
金「ええと、300…」

300万円でしょうか。そのくらいの金額はATMでは引き下ろせないのですね。やはり社長さんは我々一般人とは違います。その後も運転手さんは金髪さんとお話しし続けています。

運「どんな車なの?」
金「あんまり詳しいことはわかんないんですけど、なんか防弾仕様で…」

何と金髪さんは防弾仕様の車を購入しようとしていたのです。おそらくそれは車での移動中に敵対勢力の襲撃から身を守るためでしょう。これで私は金髪さんが道を極める家業の方、いわゆるヤクザと繋がりのある人物だと確信しました。おそらく車は自分で運転するのではなく、専属の方がいらっしゃるのでしょう。それでしたら免許を持っていないのに車を買おうとしたことも説明がつきます。常日頃から狙われている危険性のある生活など私には耐えられません。日本に住んでいる限り水と安全はタダと言いますが、それも私のように平凡な人生を送る庶民にのみ許された特権なのでしょう。しかしそうなれば私の身にも危険が迫っていると取ることもできます。防弾仕様の車に乗っている時だけ襲撃されて、送迎中のマイクロバスに乗っている時には安全だとは必ずしも言えないのですから。もしこの時に金髪さんに消えてもらいたい人がよこした刺客がこの私も乗っているバスを襲撃したら。おそらく相手はその道に長けたプロの方でしょうからこんな無防備なマイクロバスを襲うなど朝飯前でしょう。そして金髪さんを始末するためならばたまたま乗り合わせた一般人の被害などは考えていないでしょうから、その場の証人となる私たちも同様に始末してしまいます。おそらく不慮の事故として一連の出来事はうまく処理され、金髪さんの裏にある組織のことなどは一切明るみに出ることはなくニュースのたった2分ほどの枠で今回の事件は報道されるのみです。私はつまらない人生を送っていますが死に対しての恐怖心は人一倍強い自覚がありますのでそうならないことを願ってシートに座っていました。一度そう考えてしまうと不安の種はなかなか頭から離れてくれないもので、いらぬ考えが次々に浮かんできます。もしかしたら助手席の女性の方は組織の一員なのではないか。今は悠長にスマートフォンをいじっていますが、車内の状況をそれで刺客に逐一報告しているのかもしれない。優しそうにおしゃべりをする運転手さん自体が既に手先の一人なのではないか。組織から対話術を仕込まれ、金髪さんの警戒をといてうまく情報を引き出しているのではないか。運転手さんは最初から金髪さんが社長だと知っていましたし、長い時間をかけて警戒されない信頼関係を地道に気づいてきたのかもしれない。そんなことをいろいろ考えてしまうのです。

 みなさんがお察しの通り、悪い予感は的中しませんでした。私が今こうして起きたことを書いているのですから私の身が無事であることはみなさんお分かりでしょう。それから特に何も起こらずにバスは次の停留所に到着しました。助手席の女性も金髪さんそこでバスを降りました。二人がバスを降りる時にもまだ小雨が降っていましたので、優しい運転手さんは車内に備え付けてる貸し出し用の傘を金髪さんに貸そうとしました。しかし金髪さんはそれを断りました。去り際に彼が放った一言はこうです。

金「だって、傘さすのってなんかダサいじゃないですか」

彼の隣には黒い傘を携えた私がずっと座っていたのです。そんな私のことなどお構いなしに彼は傘をさす行為そのものを”ダサい”と言いバスを降りて行きました。よくよく考えたらいったい傘をさす行為のどこがダサいのか理解に苦しみますが、当人の前であっても堂々と否定的な意見を述べることのできる度胸こそが若くして人の上に立つ才能の一つなのでしょう。ちなみに助手席に座っていた女性は普通に傘をさしていました。金髪さんはいったいどういう気持ちで彼女と一緒にバスを降りたのでしょうか。バスは私と運転手さんのみを乗せて出発しました。

 運転手さんは先ほどとは打って変わって静かになりました。私は自分から話をすることが不得意でしたが、お話が好きな人をも沈黙させる才能もあったのでした。しかしその静寂も長くは続かず、しばらく走った後運転手さんがゆっくりと口を開きました。首をこちらに向けるそぶりもなく、その口から発せられる声はまるで独り言のようにも聞こえましたが内容ははっきりと覚えています。

運「さっきのさぁ、金髪のお兄ちゃんが言ってたこと、俺は全部ウソだと思うんだよね」
私「え。それってヤバくないですか⁉︎」

私は社内で初めて声を発しました。それもかなりの声量で。運転手さんは私の返答にそっけなく返しました。

運「うん。ヤバいよね」

運転手さんのあまりにもあっさりとした返答に私は人生において幾多の修羅場を乗り越えてきた年長者の威厳のようなものを感じました。私よりもひとまわりもふたまわりも多く人生を歩んでいると今回のようなことなど日常茶飯事なのでしょうか。驚愕して言葉を失う私を尻目に運転手さんは尋ねます。

運「何?君本気にしてたの?」

まるで私の何でも単純に信じてしまう浅はかさを見透かされたような鋭い指摘でした。私は震えを堪え答えます。

私「まぁ、話の内容が結構具体的でしたから」

運転手さんは腑に落ちないような表情を見せました。

運「具体的?ふーん。そうだった?」

確かに、金髪さんの話を思い返してみればその内容は不自然極まりないものです。お年寄りを騙す詐欺にどのようにAIが絡んでくるのでしょうか。いくらお金持ちとはいえ、くら寿司ほどの大きさの別荘など買ってもらえるのでしょうか。そもそもたった300万円で防弾仕様の車など買えるのでしょうか。そもそも本当にお金持ちであるなら…。私がそう思い始めた時に運転手さんがその内容を声を大にしておっしゃってくれました。

運「そもそもさぁ、大金持ちがこんなオンボロ教習所なんて使うか?」

自分が勤めている職場であり、話している相手もその教習所の生徒であることなどお構いなしに運転手さんは遠慮なく言い放ちます。私はただ引きつった作り笑いを返すしかありませんでした。私は運転手さんにまた尋ねます。

私「じゃあ、最初のドラフト入りの人は…?」
運「あれはほんと」

ガタイさんのドラフト入りの話は本当でした。

 バスが私が降りる予定の停留所に近づいてゆきます。金髪さんが言っていたことがウソなのか本当なのかを知る術は今やありません。運転手さんはまだおしゃべりを続けています。

運「俺も、君に何か話振ろうと思ったんだけどさ、広がらなさそうだからやめといた」

運転手さんは私がバスの中で反すこともない空っぽな存在であることを見抜いていました。運転手さんとは初対面でしたので、100%外見だけでそう判断されてしまったことは本来ならば私の心に深い悲しみを落とすはずですが、その時に限って言えば私にとって不幸中の幸いだったと言えるでしょう。あのそうそうたるバスの搭乗者の中で私が話せることなど一つもなかったのですから。

 バスが停留所に到着します。私は運転手さんにお礼を言ってバスを降りました。まだポツポツと雨が降り続いていました。「傘さすのってなんかダサいじゃないですか」。金髪さんの言葉が脳裏をよぎりますが、私は何の躊躇もなく傘を開きました。金髪さんの話が全部ウソならば傘をさすことはダサくないはず。それとも、結局傘をささずにバスの外へと足を踏み出した金髪さんの姿を見るに、嘘ばかりを言い続けた彼が唯一述べた真実が「傘をさすことはダサい」と言うことなのかもしれない。いや、そもそも金髪さんの言ったことが全て嘘だという確証はどこにもない。いろんなことを考えながら私は帰路につきました。免許を取って約半年が経ちました。高速道路での法定速度など忘れてしまいましたが、この1日の出来事は鮮明に覚えています。そしてこれからも忘れることはないでしょう。


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