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我輩は三四郎相田である タレントイメージはまだ無い

三四郎小宮さんがFRIDAYに襲撃されその詳細をラジオで語り盛り上がっていました。

小宮さんは何度か週刊誌にプライベートな事を掲載されていますがその度にラジオで弁明的にトークを披露して自主回収するという展開を繰り広げてきました。そしてそれは小宮さんのイメージやポジションを少しずつ段階を踏んで上げていくような歩みに感じます。最近は出たての頃の生意気いじられキャラ的な文脈とは少し違った風味を漂わせています。いつのまにか好感度のようなものが高くなってきているのではないでしょうか。

また、相田さんもドラマ「ドラゴン桜」にサプライズ出演をして話題をさらっています。

小宮さんだけでなく相田さんもジワジワとその知名度と面白さを浸透させてきている印象があります。ラジオ、ナレーション、YouTube、演技力、そして芸能界での交友関係、その芸達者っぷりと落ち着きのある雰囲気を武器に要所要所で確実に存在感を示しています。かつて鬼越トマホークの喧嘩芸で「お前のポジションはカカシでも出来る」と毒を吐かれていましたが、そうだとしたらここまで器用なカカシは相当精巧に作られているカカシだと思います。それくらい相田さんの潜在能力は高いです。

冠ラジオ番組でのイベント「三四郎のオールナイトニッポン6周年記念バチボコプレミアムライブリベンジ」も大盛況ののちに幕を下ろしました。

ここまで来たのかという感慨深さと三四郎のトークや漫才で繰り広げられるあの独特としか呼びようのない癖になる面白さに脳焦げを引き起こしながらも、ここでひとつの疑問が浮かび上がってきます。

それは

「三四郎はどうやってこの面白さを維持しているのだろう?」

という事です。


三四郎の面白さと言えば、トークや漫才でのワードセンスやトリッキーな角度のボケや設定、そしてバラエティ番組に出た時の小宮さんの滑舌や愛着の湧くリアクション、じゃない方芸人でありながらも飄々としている相田さんのキャラクターだと思います。

しかしながらこれらはよくよく考えると相反する要素と言いますか、どこでどう混ざり合って成り立っている面白さなのか非常に分かりにくいバランスで配合されているのです。単純な話にするとですが、ワードセンスがあるトリッキーな角度のボケ方や設定の漫才をするコンビにしては、お茶の間のバラエティ番組に受け入れられ過ぎているように感じます。

そしてそれは、ある程度芸歴を重ねてきてライブ等で評価されているタイプの芸人がその芸風と切り離してテレビ対応をしてゆくような二面性とはまた少し異なる感触が三四郎にはあるのです。ラジオや単独ライブ的な場所の中で繰り出されている一部の人にしか支持されないような混沌とした面白さと、テレビや演芸場のような大衆的な場所で安定供給的に差し出されているわかりやすい面白さに、違いは確かにあるのだけどそれが完全に分離してはいないのです。両要素は極めて複雑な混ざり方をしていてその実態を完全には掴ませないのに幅広くシームレスに成立させている。この地続きの正体は何なのでしょう?

今回はそんな三四郎の複雑な面白さについて考えてみたいと思います。

そしてその事により見えてきた相田さんの重要性にも注目していきたいと。極めて個人的な捉え方ですが、三四郎好きな方はもしよかったらお付き合い下さいませ。


三四郎のおもしろさ

まず、三四郎の面白さとして第一にイメージされるのは小宮さんのあの滑舌といじられやすいキャラクター、そしてワードセンスだと思います。数々のバラエティ番組にその武器で爪痕を残し活躍してきたのはご存知の通りです。

小宮の滑舌

あの独特な言い回しや間とタイミング、いじられた時のツッコミは一体どのように養ってきたのでしょうか?その出所のようなものは三四郎の2人きりのトークを聴くと何となくですが感じ取る事が出来ます。

学生時代の同級生でコンビを組んでいる三四郎の掛け合いは非常に身内贔屓ななぁなぁとした空気感を纏ったまま進んでいきます。もちろん初めて聞いた人にも分かるような話し方と要所要所で笑いを挟むテクニックを駆使しながらも、何と言いますか二人の共通価値観や意識段階みたいなものが他の芸人さんやタレントと比べると出発地点からそんなに動いてないかのように感じる事が多いのです。それはプロ意識的なものが低いと言っているわけではなく、面白いと思って提示されているものの線引きの変わらなさについて目を見張るという感じです。深夜のファミレスで隣の席から聞こえてくるような同世代のダラダラとだべっている様子を盗み聞きしている感覚。そんな親近感を覚えさせてくれる喋りが三四郎の持ち味です。

そしてその極めて高い同級生感のようなものを土台にその上で小宮さんはあの独特の言い回しでくすぐり続けてきます。小宮さんは自分の滑舌を把握していてそれが笑われやすいという事を理解した上での言葉の発し方をします。それは声を荒げてリアクション的なツッコミをしている時よりも、むしろ小声で「はて?」「〜とは?」「〜かな?」「〜だよ」というそっと置いてゆくようなコメントを挟んでいる時の方がおかしみが増幅しているように感じます。あの空気の抜けるような声質で射程範囲が狭ければ狭い程充満するこそばゆい面白さを耳元で囁かれるようにして吐瀉物みたいな笑わせ方をしてきます。そしてそれは相田さんを含めた小宮さんの半径何メートルか以内の仲間内に向けて基本放たれているのです。

もう今の時点で言ってしまえば三四郎の独特の面白さは、小宮さんのこの持って生まれた滑舌的なものを活かすためにそれを最大限使いこなした小声コメントのワードチョイスや角度や展開そのものであり、そしてその「少人数であればある程面白さの濃度が高まる話術を場所を選んで調整している」というのが雑な見立てではありますが大方の解釈です。しかしそれであるならばなぜ小宮さんはここまで幅広くお茶の間のバラエティ番組にまで受け入れられたのかまでの説明がいささか不足していると思います。そこで重要になってくるのが相田さんの役割です。相田さんは小宮さんのその極めて狭い範囲でこそ面白さの濃度が増すコメント芸を増幅させたり縮小させたりして調整するのです。

相田のアシスト

しかしここで興味深いのは相田さんが小宮さんの面白さを引き出すためのアシストが分かりやすくないという所です。小宮さんの「狭い範囲であればある程面白さの濃度が高まる話術」はお笑いとしてボケかツッコミかの二元論では測りきれないような因数に留まっています。なので相田さん自身もボケともツッコミとも呼べないような微妙な立ち位置にいる事が多いです。

例えば小宮さんの発言をボケだと捉えた場合、相田さんはツッコミですがにしては爆笑問題田中さんやタカアンドトシのトシさん程、相方に付きっきりで取りこぼしの無い様にスタンバってる訳ではありません。

かといって小宮さんのいじられをツッコミだと捉えた場合、相田さんはボケですがにしてはおぎやはぎ小木さんやロンブー淳さん程、場を自分のペースに持っていってコンビの可動域を広げるような立ち回りを見せる訳でもありません。

何というか相田さんは非常にぼんやりとしたポジショニングに居続けています。じゃない方芸人やネタ書いてない芸人、意外とポンコツ芸人、実はイカれているのはコッチの方、などのスポットが当てられた時も全部半分くらいしか乗っからないのです。しかしこれが小宮さんの「狭い範囲であればある程面白さの濃度が高まる話術」に置いてとても重要な要素になっています。

その事がとてもよく表れているエピソードがあります。ラジオで話していた2人の出会いの印象トークです。学生時代に同じクラスメイトになった相田さんが田村正和(厳密にはとんねるずタカさんの新畑任三郎)のモノマネをして輪の中心に入っていく姿を小宮さんが遠くから見ていて心の中でツッコんでいたという話です。そのまま相田さんが受け入れられて溶け込んだのも含めて、この状態が三四郎の漫才師としての関係性のベースになっていると感じてやまない、一種の象徴的な状況描写だと思います。

つまり小宮さんの心の中でのツッコミという
「狭い範囲であればある程面白さの濃度が高まる話術」を

相田さんの遠くで行われているモノマネという
「広い範囲であればある程自我を介入させない振る舞い」が

間接的にですが引き立てて成立させている瞬間であったのだと感じます。

三四郎のフォーメーション

ダウンタウン本人の前で、かつて相田さんがダウンタウンのモノマネをしていた事を小宮さんが語る。この構図もまた三四郎のスタンダードなフォーメーションです。

そうです。相田さんの芸の根幹はモノマネです。小宮さんが話術の芸なのに対して相田さんは演技の芸なのです。しかもそのモノマネは広い範囲に向けられているのに細かすぎて伝わらない的なニュアンスがどこか根を張っているタイプのモノマネ芸であり、それを極めていけば行くほど相田さんの自我が姿を見えにくくさせるような種類のなりきり芸なのです。これを小宮さんの「狭い範囲であればある程面白さの濃度が高まる話術」の相手役として応用させているのです。

ラジオでの三四郎

三四郎のラジオで小宮さんはテレビや舞台と比べると落ち着いていてより素に近いトーンで喋っていきます。そのテンションの中で自然にボケたりツッコんだりのコメントを挟みこみ、そして徐々に徐々にそのギアを上げていきながらあるタイミングで溢れた一言で一気に段階を上げ気付いたらカオスに突入しているというトーク展開をよく見せます。

長い時間をかけダベっていた深夜のファミレスでもはや何が面白いのか分からなくなっているけどとにかく笑えて仕方ないというトランス状態のようなものの再現率が異様に高いのです。ただそれを成立させるためにはどんな話題にも着いていけるとにかく理解のある聞き手の存在が必須です。それが相田さんです。通常なら公共の電波に乗せるにはあまりに狭い範囲の面白さを時にボけ時にツッコみ時に乗っかり時にただただ笑うというどの角度からでもクオリティの高い聞き手役を再現出来る相田さんの存在がなければここまでの波及は起こりえなかったと思います。相田さんももちろん素に近いわけですが、この聞き手としての振る舞いの幅の広さは「モノマネ」力に他ならないと感じます。

これがハライチのラジオなら澤部さんの的確な相槌と話し手の意図を汲み取って盛り上げる能力によってもっとトーク全体のテンポやグルーヴが高まるでしょうし

これがアルコ&ピースのラジオなら酒井さんのミニコントに入る反応の早さや卒の無いポジション取りによってもっと番組自体のコンセプトや提示する文脈に革新性が高まるでしょう。

相田さんはそれらと比べるとやはりどの部分が明確なテクニックなのかがボヤけるところがあります。相槌による盛り上げもミニコントに入れる技術もどちらも要素として持っているのですがそれがどこか表面的で満遍ないのです。言ってしまえば深夜のラジオパーソナリティのモノマネ感があり、そしてそれは芸人の相方のモノマネ感のある喋りなのです。そういう意味ではそこに実態は無いのですが小宮さんの面白さを引き立てる役割においてのみ自我が発生しているという感じでしょうか。この相田さんの聞き手のモノマネ力によって小宮さんの「狭い範囲であればある程面白さの濃度が高まる話術」をより増幅させてラジオの前の聞き手を錯覚させるのです。いわばここは深夜のファミレスで同級生と喋っているかのような気分に。それがカオスの促進にひと役買っているわけです。



テレビでの三四郎

そして2人は、さらにその構造原理をテレビや舞台にも応用させていきます。
その時、より広い場所に進出していけば行くほど小宮さんの「狭い範囲であればある程面白さの濃度が高まる話術」がいじられやリアクション的な要素が強まり、相田さんの「広い範囲であればある程自我を介入させない振る舞い」がじゃない方芸人やナレーションやアクターとしての需要に繋がっていくわけです。

三四郎のテレビ出演と言えばやはり「ゴッドタン」に初登場した時の骨折姿でしょうか。アメトーークやとんねるずとの絡みなどポイントポイントでインパクトを強く打ち出していたものの、その売れる一番最初のきっかけはこの時の小宮さんの不憫な状態とそれをフックにMCとの絡みに食ってかかるような生意気で挙動不審なキャラクターをアプローチしていった事によるものが大分大きいと思います。

そして今改めてですが、その時相田さんはどうしていたのでしょうか?

ゴットタンの初登場時に披露されたネタは「コマネチ」という漫才です。

このネタは相田さんがボケ役となり「コマネチの仕方が変だと言われるから見てくれ」という狂った設定で始まります。相田さんが全力で間違ったコマネチをしまくりそれに小宮さんがツッコむというパフォーマンス要素の強いネタなのですが、この時は骨折した小宮さんが車椅子姿のまま無理矢理漫才のていをなそうとするので観ている人に肝心のネタの内容が全然入ってこず結果ネタ終わりで小宮さんがいじられまくるという流れが生まれています。つまり本来なら相田さんが全力で異常な事をするネタなのに見た目の衝撃度から小宮さんが目立ってしまっている状況のおかしみがその場にハマったというわけです。これは小宮さんがボケ役だったり、もっと相田さんが小宮さんをイジる感じの設定だったとしたら、ここまでその違和感は強くなってなかったと思います。

そして小宮さんは初見のインパクトからその勢いそのままに生意気で挙動不審なキャラクターをどんどん打ち出してゆき数々のバラエティ番組で存在感を強固にしてゆくのです。

この小宮さんのプチブレイク時に、相田さんは小宮さんの邪魔をしない事が最善の策であると言わんばかりに引き立て役に徹していた印象があります。ただそれは、黙々とフリ役だけに留まるアンガールズ山根さんや、本当に何にもせずその事にツッコミを生じさせるウエストランド河本さんのような佇まいとは違います。相田さんは物怖じせず堂々としかしさり気無く、小宮さんをイジって盛り上がる側の方に位置取りをしてみせるのです。

この小宮さんの邪魔をしないようにしながら、それを利用して先輩芸人側、売れているタレント側に最初から居るかのような雰囲気を醸し出せるのが相田さんのモノマネ力によってなせる技だと思います。この紛れ込み方により小宮さんの印象付けから三四郎のコンビ芸への注目させ方が非常にスムーズだったのを記憶しています。

相田さんは小宮さんをイジる代表でありながらそれを独占し自分の手柄にせず、イジる側全体として大衆と同化してしまいます。ラジオのトークで深夜のファミレスだと交錯させる原理と同じで、テレビの前の視聴者を芸人達のノリに参加させ一緒に小宮さんをイジって盛り上がっている学生時代の休み時間のような雰囲気を疑似体験させるのです。

そして相田さんのキャラクターはそこを起点に肉付けさせていきます。器用に大衆の表層部分をモノマネしていく行為でそのままタレントのパブリックイメージを膨らませていくのです。YouTubeにしろネット限定のCMにしろテレビ東京などのローカルな放送局にしろ、少し注目度が下がるようなゾーンでこそ相田さんのそのモノマネ力は研ぎ澄まされ冴え渡ってゆきます。広い範囲に放たれているのにどこかマニアックな要素が根を張っている相田さんのモノマネ芸は大衆的な場所だけどその中では注目度が下がるようなゾーンでこそその魅力は発揮されやすいのではないでしょうか。そしてなんだかんだで相田さんは最終的に輪の中に溶け込むのです。

さらに勘の良い方ならお気付きかと思われますが、ラジオからテレビへ移ってゆく過程で小宮さんのボケの要素が成りを潜めどんどんツッコミ化しているのです。このシームレスな媒介技術こそが三四郎の地続きの正体ではないかと感じます。


舞台での三四郎

そして舞台。漫才です。

この領域まで来ると小宮さんのツッコミが形式的にも大分割合が高くなってきて、相田さんがボケる確率も明確に上がってきています。特にテレビでタレントとして幅広く認知されてからこの傾向は強まりました。しかし三四郎はそれを場所によって使い分けます。単独ライブ的な場所やホームグラウンドな客層だともっとトリッキーな設定でボケツッコミどちらもグラデーション的に役割分担をさせている変化球の極みのような漫才をするのです。

特にデビュー当時の初期の頃の漫才が、漫才としての原型を留めていない程解体して液化させたようなただただ衝動をネタ化させたものを人前で発露している行為そのものになっていて、パンクかつロックかつフリージャズかつプログレ的な漫才になっています。スタイルやテーマとしては一番近いのはカンニングを連想しますがワードの捻りは南海キャンディーズ、フリートーク的な要素はおぎやはぎ、ボケツッコミを入れ替えるテクニカルなやり方は囲碁将棋、ランジャタイやヤーレンズの要素もある気がします。実に様々なニュアンスを複合的な混ぜ合わせた漫才なのか何なのか分からないめちゃくちゃな漫才を三四郎は作り上げるのです。

ですがやはりその中心に変わらずあるのは小宮さんの「狭い範囲であればある程面白さの濃度が高まる話術」でありそしてその周辺を覆うのは相田さんの「広い範囲であればある程自我を介入させない振る舞い」です。それによって縦横無尽に繰り広げられる言葉の洪水ともはや言語としての意味を超越してしまっているボルテージの高鳴りへと昇華され一時たりとも混沌を停止させずより混乱の渦の中へ中へと突き進んでゆくのです。


三四郎という漫才師の文学性

ここでひとつ思い巡る事があります。三四郎というコンビ名です。元々はネタ合わせをしていた公園の名前から着想を得て付けたのが由来だそうですが、後々に「博学に見えるから」との理由で夏目漱石の三四郎から取ったと理由を変えています。

夏目漱石 三四郎

夏目漱石の三四郎は明治末期を描いた作品で郷里、学問、恋愛を題材としながら当時の日本社会の批評にもなっている教養小説です。主人公三四郎が美禰子という女性に恋焦がれ憧れ翻弄され葛藤をしてゆく様はどこか小宮さんと重なるものがあります。またところどころで出て来る「矛盾だ」「stray sheep」「我はわが咎を知る。わが罪は常にわが前にあり」などの印象的なフレーズは小宮さんの類稀なるワードセンスとも何となく通ずるものが感じられます。

三四郎が描かれた日露戦争直後の明治時代はまだ自由恋愛がそこまで認められておらず個人主義的な考えも今よりもずっと縁遠いものでした。その時代の中で変わりゆく倫理観や価値観を小説と共に夏目漱石は世に問うた事が何よりもセンセーショナルで意味があったため人々の心を今もなお掴んでいるのだと思います。それは時代を超えて同じコンビ名の漫才師がはからずとも似たような事を叫び体現し偶発的にでもメッセージとして伝えてしまっているような気がします。

個人と社会の中で振り回されるような感覚は誰しも覚えがあるものだと思いますが、その線引きはどこに引かれてそしてどう自分の内側からの欲求や精神を解釈しなおかつ他者とコミュニケーションを取っていくのかは常に我々に与えられている課題です。小宮さんはその状態と状況をそのままに「狭い範囲であればある程面白さの濃度が高まる話術」を駆使してその自己の内外を直結させるようにさらけ出す事でそれを前進させてゆきます。つまり心の中で放たれているツッコミを口にする事で状況は変わらずとも自分が葛藤している事そのものを自分自身で理解するというところまでには到達させるのです。

三四郎の漫才はそのような誰もが覚える普遍的な葛藤そのものを言葉にする事で意図は伝わらなくとも体現するからこそ、その漫才としての原型を留めていない状態でも笑いとともに一番原始的な部分で繋がれるのではないでしょうか。そしてそれはやはり相田さんという他者が表面的な大衆として存在するからこそ成立するのだと思います。

相田周二という視点設計

いかがでしょうか?

ここまで考えてみて、何となくではありますが三四郎がどうやってその面白さを維持しているのか感じ取れたのではないでしょうか。


最後、ちなみにな話なのですが

夏目漱石は処女作として「吾輩は猫である」という小説を書いています。

これはE.T.A.ホフマンの長編小説「牡猫ムルの人生観」と、ローレンス・スターンの「トリストラム・シャンディ」とロバート・バーの『放心家組合』と落語の「花色木綿(出来心)」、「黄金餅」そして弟子の寺田寅彦の論文など、幾つものパロディを複合的に混ぜ合わせてオリジナリティの域にまで到達させている作品です。

これを知った時、相田さんみたいだなぁと思いました。



細かいモノマネをし続ける事で自我を形成し大衆とそのまま同化する。

相田さんが同化し形成された周囲という名の同級生のひしめく教室の片隅で、小宮さんが心の中で何を思い言葉にするのか、その一言を今日もまた聞き続けていたいのです。



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