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アルゴリズムは成田悠輔切り抜き動画の夢を見るか


夜明け前のplayersという番組をよく見ています。


経済学者の成田悠輔さんがMCを務めるトーク番組です。

政治家、クリエイター、学者、タレント、様々なジャンルの著名人をゲストに呼び成田さんと対談してゆきます。

簡潔かつ歯に衣着せぬ質問力と、緩やかで淡々とした声質が癖になる成田さんのMCは、専門的な難しい話を噛み砕いて飲み込みやすくしたり、逆に抽象的な濃度が高まって哲学領域に展開していったり、時折挟み込まれる成田さんのあの独特でシニカルなユーモアが融和剤にもなってて、地上波テレビ番組の中で深度のある微睡と妙な安心感を放っていて面白いです。


ここ数年の いわゆる論壇と呼ばれる社会範囲、メディア界隈で、突如として頭角を表し存在感を示し、いつの間にかその異物感も含めて馴染んでしまった感のある成田悠輔という不思議な眼鏡を掛けた男

その謎めいた魅力とも、何を考えてるか分からない不気味さとも呼べるような、あの眼鏡同様 不思議な興味の惹きつけ方、その原液を味わえる番組のひとつだと感じています。


そんな成田さんの活動、なのかフワフワした掴みどころのない生き方、なのか それ自体に対しても賛否というものはあり、そちらにも目を向けてみると

やはり、かつて話題になって今なおトロ火で燃え続けている

「高齢者の集団自決」発言

も注目され議論されている側面だとも感じています。

この発言が切り取られて拡散されて、成田さんのある種のシンボリックアイコンと化している現状は、その言葉が出てきた文脈や背景を加味した上で、そこに受け手にとっての別の文脈や背景が個々人で被さってきて、それ経由でそれぞれの感想が発信される事を含めて、もはや情報としての全貌や詳細を把握するのは一般的な視聴者感覚としてはなかなか難しいと感じます。コメントのひとり歩き段会を過ぎて共同概念に達してると思います。

「親ガチャ」「老害」「発達」「蛙化」とかと同じくらい意味が拡大解釈されてるゾーンに届いてしまってるかなと個人的は感じたりしています。


その上で見聞きする「成田悠輔のアイドル化、タレント扱いへの疑問」というような声も少なくないのかなと感じたりしながらも、この件はそのまま「論客とは何か?」という話に連結できると考えています。

成田さんは時たま、自身の存在を「三流芸人と変わらない」と自嘲気味に発言し笑いを誘いますが、

実際、その“売れ方“はとてもお笑い的だと思います。


今から話すのは、成田悠輔を経済学者ではなくバラエティタレントとして見た場合の「面白さの仕組み」の個人的な解釈です。

このアカウントは基本的に「お笑い芸人」について僕が感じた事を書いてゆくだけでしかありませんし、ましてや社会批評的な意義や、成田さんの言動や行動が言論人としてどう世の中に影響を与えてゆくのか、それを受けて何かを発信する事が何にどう波及してゆくのか、正直全然わかっていません。成田さんはお笑い芸人ではないですし、このnote記事には思想的立場の表明をしている自覚もありません。

あくまで、個人的に感じた成田悠輔の“芸人性“、
もっと言えばメディア道化として突出していると、いち視聴者が個人的に感じてる事を記したものだとお捉え下さい。
頭のおかしなお笑い好きがイエール大学准教授の与太を笑っているだけに過ぎない事を改めてご理解いただけますと幸いです。



成田悠輔と声

僕が成田さんのお笑い的な面白さを明確に認識し始めたのは単発のオールナイトニッポン0を聞いた時だったと思います。

この時の語り口のトーンと話している内容が非常に深夜ラジオ的な空気感と相性が良いと感じたし、本人も途中で「学生時代、aikoさんのANNで下ネタとか聴いてて、ぁあ〜と思いながら夜を過ごしていた…」と言っててリスナーとしてのカタルシスやそういう領域に対してのなんとなくの理解を示しているようにも思いました。

選曲も独特で面白かったです。

成田さんはアカデミックな領域を経由して、実際の肩書きも学者でありとても頭の良い方だと思うのですがそのイメージに引っ張られて、本人の趣味嗜好としてサブカルやアングラ的なものへの眼差しや距離感が近接的である事があまり気付かれていないところがあると思います。(というか、たぶんその支持層と論壇的な界隈が絶妙に分離している。)

「やたらと飴玉をあげようとする大阪のおばちゃん」を面白がるリスナーの投稿から、ドラッグの受け渡し方に話を繋げたところが、成田さんの下地にあるシニカルな反骨精神のある笑いとして味わい深くて面白かったです。

また、本人も限られた領域だとそれについて自覚的な言及もしてて、「今は割と論壇的な界隈にいる印象になってるけど、今後は元々興味のあるカルチャー方面に行きたい」的な事も話していたりします。

それと成田さん自身の発し手としての面白さに「声」という要素も大分関与していると感じています。
あの均一的で淡々とした落ち着いた喋りの聴き心地が、妙な説得力と でも重くなりすぎない塩梅の軽妙さを生むギリギリの音程で なんだか耳を傾けてしまうという質の特徴を、本人も周囲からも認識されていて度々言及されています。
バラいろダンディで自覚的に語っていたり、古舘伊知郎から指摘されていたりと、声の良さによって成田さんの演者需要は高まったと言えるのではないでしょうか。

こういった、本人の年代の割に享受してきたであろうカルチャーの幅と、偶発的に持ち合わせていた声帯が観衆に与えるマインドによって、笑いを取ったり気の利いたコメントをしたりする事が単純に向いていたのではないかと想像がつきます。
それが成田さんの根底に感じる聴覚的な才による面白さというわけです。

成田さんは好きな音楽について聞かれた時に、ゴダールが監督した映画「勝手に逃げろ/人生」の劇中音楽、ガブリエルヤレドという人が作ったサウンドトラックだと答えています。

このなんとも言えない癖になるアンニュイ感じ、成田さんの芸風を凝縮したようです。
「前に進んでいるんだか後退しているんだかわからない感じが好き」と言っていました。

成田さんはこの音楽的なコミュニケーションハックを最小単位として、様々な領域断層に触媒していっているという印象があります。これが非常に芸人性を覚えます。



成田悠輔と批評

論者として成田さんが面白かったなと記憶しているものに

シラスというプラットフォームでの哲学者東浩紀さんとの対談動画があります。

前述した成田さんの音感的なナチュラルパフォーマンスが東浩紀さんという言語化のモンスターのような識者と対峙する事で、社会批評的な地点から抽象的な人間の存在論まで、意図も容易く縦横無尽に会話を展開させてて面白かったです。

こうしてガッツリ言語密度の高い相手と喋ると、成田さんの話法の特異性が際立ってくると言いますか、もちろん成田さんの言語化能力や知識の引き出し、傾聴力、理解度などかなり高いと思うのですが、それは東さんのような論理的思考による共感覚の形成というよりも、もっと前提段階から形式や記号を有してない(ただ、だからこそ言論人モノマネが可能)という印象を受けました。タモリが地形の雑学で専門家を関心させるやつのLevel .200といった感じ。

煌々と燃える東さんの熱意と、飄々とした態度を貫く成田さんの対比も良かったです。


この対談の中で成田さんは、ひろゆきさんの事をラッパーだと評していました。

西村博之という人が支持され現象にまで化した事の本質は、言説の内容ではなくて話し方のリズムの気持ちよさによるもの。議論を音楽にした事で小学生でも真似できるほどに流行った。仮に真逆の意見を述べたとしても雰囲気的に勝つ事ができるし、その人気は変わらない。番組内(マッドマックスTVの「論破王」という企画)でそれを証明している。というような事を話していました。

このひろゆき評に唸ると同時に、その視点が出てくるという事はやはり成田さんもそういう素養があるタイプだという事の表れでもあるとも思います。
ひろゆきさんも元2ちゃんねる管理人という肩書きを経由しそのニュアンスを維持した形で社会的な事を語るコメンテーターと化しています。
前述した成田さんのカルチャー気質の喋りを担保に論壇へ触媒させている順路と似ています。


その上で成田さんとひろゆきさんと異なる点はスタンスもそうですが、

成田さんはひろゆきさんのように、対峙する相手の主張の粗を突いていったり、レスポンスの中で会話の主導権を握るというよりも、
それを受けての質問や別の角度の応用的な議題展開、または補足や解説や包括的な要約といった感じで、その情報の的確さや核心の突き方で相手を追い詰めてしまうという事はあるのだとは思いますが、基本的にはイニシアチブ獲得のゲームをプレイしている感じがあまりしません。

ひろゆきさんは「いじり芸」で、
成田さんは「ツッコミ芸」だと思います。

そこに違いがあります。
ただ芸人性という点ではかなり近い部分があると感じています。


また、成田さんに似ていると言われている先人的存在として、社会学者から言論人化した宮台真司さんが上げられると思います。

宮台さんは朝生という討論番組で学者や知識人を相手に、援助交際を含めた女子高生の生態をフィールドワークしてそれをルポライト的に話すことで、机上の空論的な議論のあり方に一石を投じるという、かなりセンセーショナルな手法で言論人として頭角を表した社会学者です。

発言内容のある種の過激さというポイントに注目すると、たしかに似ている部分はある気はします。
もしかすると、成田さんは宮台さんという存在をどこかトレースしているところがあるのかもしれません。

ただ、そこにも違いを見出してみるのなら、上記した東さんもそうですが宮台さんはバラエティタレントの領域にまでは進出していません。というか、そこまで擬態が可能な喋りではないように感じます。
成田さんやひろゆきさんは言論人にもバラエティタレントにも喋りの上では擬態できるのだと思います。

逆説的に言えば、ある範囲で共有されてこそ真価が高まる性質こそが言語の特徴であり、批評的なものの価値と直結してゆく“限定性“だと思うので、宮台さんや東さんの方が言論人としての正しいあり方であるとも言えます。
バラエティタレント側から考えると、伊集院光さんのような面白さの成り立ち方。
話術を極めてゆく事で活動領域が深夜ラジオやクイズ番組に限定され特化型になってゆく感じ。
伊集院さんは芸人の中における“言論性“を保持しているタイプだと思います。


話が横道に逸れましたが、成田さんはそういったどちらにもある程度擬態できる能力ゆえ領域的横断を可能にさせているのかなと感じます。これはやはりどの界隈にも溶け込む事を命題としている芸人的な言葉の使い方、そして部外者であるからこその批評的な視点の獲得方法だと思います。

ちなみに、
成田さんは好きな哲学書を聞かれた時、叶恭子さんの「トリオリズム」をあげていました。

哲学や人生における普遍的な問いに対して考えてゆく事に愛着を持ちながら、それすらもちょっと笑ってみる俯瞰的な視座は、批評そのものでありながらやはりお笑いにおけるツッコミ目線のそれでもあると思います。



成田悠輔とアイコン

成田さんがバラエティ番組に出てる中で面白かったなぁと印象に残っているものが

コウメ太夫さんについて批評的に語るという企画です。馬鹿馬鹿しくて面白かったです。

こういった求められる振る舞いの認識、コメンテーターというテレビ番組内での一役割を客観的に捉えた上で、そこでの最適解を察して批評性を持って語ってゆく…事自体のパロディコントを行える言論人ってなかなか居ないと思います。

成田さんは自著「22世紀の民主主義」の中で、

"「調整者・実行者としての政治家」は、ソフトウェアやアルゴリズムに置き換えられ自動化されていく"

と語っています。

ナチュラルに笑いを取れる喋りと、社会批評的な観点で言論人に擬態できる話法によって、成田さんはコメンテーターという仕事のアルゴリズムを感覚的に掴み振る舞い的に自動化させているのではと感じています。

どの場面で大体どんな事を言えば良いか分かっているから崩せるし、上記したようなバラエティ番組の現場でも求められる「言論人っぽいコメント」を出力する事ができる。アカデミックな知識を実際に有してる人でこれを出来る人ってとても少ないと思います。


そのコメントのサンプリング技術に付け加えて、見た目に関してもあの丸と四角の眼鏡が、視聴者の脳内でアイコン化され記憶として残るのに一役買っていると思います。

そういった偶発的に視聴者の記憶にアイコン化されて残るような要素が何点かあって、そこから自然とタレント化していったのだろうなと感じています。

自分の記憶では、たしか成田さんの一番最初のタレント化のきっかけは「日経テレ東大学」という経済についての話をする事がメイン企画のYouTubeチャンネル、その中のFACT&BEYONDというワンコーナーに出演した事が大きかったんじゃないかなと思います。

元々、その時メディア露出を増やしていたひろゆきさんが中心的な座組で、成田さんはもっと解説やアシスト的なポジションで呼ばれていたと思うのですが、その情報要約力の高さによりコメント欄で「成田が有能すぎる」「成田とひろゆきだけでいいんじゃないか?」「成田の話をもっと聞きたい」と反応があったのをなんとなく覚えています。

なので、最初の頃の成田さんは割とひろゆきさんと一緒のイメージもあったし、その組み合わせで期待されていた事と、論破芸的なコメンテーターとしての模倣があったとも感じてて、けっこう真面目な話も出来るけど皮肉や毒舌っぽい事も言える、という感じのキャラ造形になっていた感触があります。

その流れからなのか、同時並行的なのか、報道ステーションや、Abema prime、NewsPicksなどにも、歯に衣着せぬ発言をする論客として注目され出演依頼をされだしていったのではないでしょうか。
制作者側に存在が認識されて起用されだした瞬間があったのを朧げながら感じていました。

サンジャポ辺りを経由していった段階ぐらいからバラエティ番組にも呼ばれだした感じなんじゃないかなと思います。


成田さんの専門家からタレント的な領域に段階を踏んでいったこの現象って、お笑い芸人とバラエティ番組の関係性に当てはめてみると、ゴッドタンでハライチ岩井さんの腐り芸が誕生した一連のノリと似てると感じています。

コンビ愛たしかめ選手権という企画の中で岩井さんの腐り発言は発掘されていじられてキャラ化し、その開き直りスタンスを各番組でも求められだした事で「じゃない方芸人」を脱却し、今やお昼の帯番組のMCを務めています。

企画の中心点ではなかった立ち位置から偶発的にその面白さが発見され、その発言範囲がキャラとして部分的に周知される事で本人の認知度が余白も含めて上がってゆく。そのためやや発言や振る舞いの過激さが冗談である文脈を少しだけはみ出ながら話題になってゆく。

岩井さん以外にも似たようなタイプに、カズレーザーさんの初期の頃の「街の変わり者」スタンス(→からの同志社卒でクイズ高得点で「意外と頭いい」という評価の反転)とかも近いと思います。
カズレーザーさんのコメント技術も成田さん的なサンプリング性と、開き直り芸が下地に施されてる点でかなり似てると感じます。

あと、
おぎやはぎ小木さんの笑いの取り方とかも近いと思います。
どちらもどこか、ぬぼ〜っとした雰囲気で飄々と淡々と、誰もが思っても口にしない開き直った発言をして笑いを取る感じ、それで許される地点を見定めてる感じは類似してると思います。

小木さんもよく、コメンテーターとして出演しながら、その番組の構造自体を突き放し気味にいじるコメントで笑いを取っています。

成田さんがウケた理由はコメント芸とタレントとしてのそういう需要を理解し偶発的に(途中から意識的に)模倣できたという、"コメンテーターコント"の遂行によって成した結果なのではないでしょうか。

そして、
例の「高齢者の集団自決」発言はそういう開き直りのブラックジョーク的なニュアンスが含まれた(なんなら、こんな事を言ってる自分は頭がおかしい人だ…みたいな自虐を踏まえてる)発言で、それが皮肉としてウケるような密室的な範囲とその意図が汲める土壌があったことと、
成田さん自身がここまで有名になると自他共に思ってなかった段階での発言が時間差で擦られて、意図的になのか拡散しようとした不特定多数がそうしたために浮上してきた言葉だとも個人的には感じます。

小林賢太郎さんのオリンピック解任騒動の時の、昔のネタの引っ張り出され方と似てる現象だと思います。


成田悠輔と肩書き

タレント的に有名になる前の成田さんが人前で笑いを取っているシーンです。

眼鏡も丸四角じゃないし、目線や落ち着きもどこか定まっていません。
ただ、その喋りは今と全然変わらず、やはりコメンテーターコント的に求められてる発言の規定範囲を踏まえた上でそこからズラして、この場の設定構造にツッコミを入れるという笑いの取り方をこの段階から既にしています。
中盤あたりの蒟蒻問答の話が、根本的な言及すぎて面白くて特に好きです。

タレント領域に浸透する前から、それこそ蒟蒻問答よろしくその場でその時求められてるコミュニケーションを察した上できちんと答えない事で受け手の興味を持続させ勝手に満足感を与えてしまう、それが人前だと笑いという形で可視化されよりわかりやすくなっていて、この頃からこうだったんだなぁ…と感じずにはいられません。

それがコメンテーターという番組の役割ではなく、もっと純粋に経済学者という肩書きをフリに、そこへ求められている空洞的な期待を利用し笑いをとっている形になっている
それぐらいしか今と違いはありません。

と同時に感じるのは、そういう意味では逆説的に肩書きを活用しているとも捉えられます。

成田さんがガーシーさんや堀江貴文さんと絡んでいるのは、経済学者だからとも言えるし、経済学者というイメージから逸脱している(しようとしてる)からだとも言えると思います。それを本人が意図してても、製作者が意図してても。
眼鏡も相まってマッドサイエンティスト感もありますし、学者という肩書きですらコントのような感覚で社会的目線ごと踏まえて乗っかってみたり型から外れてみたり、掴み所なく煙に巻くように振る舞っているところがあると感じてやみません。

もちろん、本業(?)である学術的な事に興味が失われているわけでもないと思います。

中田敦彦さんと教育について話していた時はかなり前のめりだと感じました。

林修さんの番組に出演した時も日本の受験制度についての見解を丁寧に説明していました。

中田さんはお笑いタレント活動の延長線上で教育系YouTuberと化している状態ですので境界横断的にはちょうど成田さんと逆ですし、
林さんは予備校講師という立場からその塾のCMでキャラクターを面白がられてテレビタレント化しているので付随的な領域ではありますがこちらもまた似た形のバランスで横断をしているタイプです。

成田さんは自身が半分偶発的にタレントのように有名になったことに対して、頓着が薄く刹那的で実際そう語っているのですが、こうしてアカデミックな領域と芸能の中間みたいな立ち位置にいる人と絡んだ時に、なんというかマスに自分が出る事の目的というか意志めいたものを勝手にですが皮膚感覚として覚えたりします。
経歴に対しての出自が割と過酷だったりしたという話を見聞きすると、教育に対しての何かしらの想いはあるのかもなぁ…と思ったりします。実際何を考えてるのかわからないけど。

そういう風に感じたりすると、成田さんにとって肩書きというのは二重層的に利用されてるところがある気がしてて、「学者というある種の権威性をズラす事で笑いを取る」事と、「バラエティ番組で笑いを取ってる妙な眼鏡をかけてる人が教育について話しているので興味を湧かせる」事、このふたつの情報循環的な作用を、知名度の獲得をしてゆくことで成そうとしてるのかなぁと思ったりしました。

どんなに最高学位であっても
肩書きそのものに意味はないからこそ、
その虚空性を最大限に利用してる感じ。

22世紀の民主主義の中では、

"「アイドル・マスコット・サンドバッグとしての政治家」はネコやゴキブリVTuberやバーチャル・インフルエンサーのような仮想人に置き換えられていく"

とも語られています。

それを率先して生身で体現している実験段階の可能性もありますね。

明石家さんまさんと絡んだり、
浅草の舞台で漫才を行ったり、
仮想人のジャンルの中でもかなりお笑い寄りの方角を許容している気がしますし。

本当はただの蒟蒻屋なのかもしれません。


成田悠輔と居場所

成田さんが実際に体験した事をレポート的に話しているものも面白かったです。

こちらは「旅」をテーマに、成田さんが過去様々な国へ訪れてそこで体験した事を話しています。

上記した肩書きを虚空として扱い活用する手法のもういち段会発展させたものは、その肩書きの通用しないコミニティ、場所に出向く事
いち個体として、そこに参加する在り方という事なのかもと思いました。

海外や自然などに足を踏み入れて直面した事で得られる個人の感覚もデータ収集と呼べるし、それを持ち帰って誰かに話すことや、少なからず受けた価値転換が結果として他の誰かや何かに微妙に影響を与えてゆくこと、その波及は最小単位の公共性のデザインと言えるのかもしれません。

僕の考える"芸人性"とは、こういった情報の乗り物性、面白さを通して雰囲気ごと何かが伝達してゆく無意識の営み、好奇心の体現化をしたようなものだと思っています。

成田さんにはそういう要素や意識を感じるし、それは単純に人や学問に対しても向けられるので、よく本人も「新しい人、普段会えないような人、に会えるのが楽しい」からメディアに出ているようなところがある と言っていたりします。

人間の内面について考えてゆく事と、この世界の外側を見つめてゆく事の本質的な違いは何でしょうか?

経済学がどの領域の事までを指すかは把握出来ていないのですが、人間も自然の一部だと捉えると、この社会も我々の精神や感情のひとつひとつも博物学に含まれるのかもしれません。
成田さんは今言論人的なイメージとアプローチを模倣してるしアップデートも試みてたりするような気もどこかするのですが、それ自体もデータ収集的な知識欲、純粋な好奇心に感じます。

個人的には、
成田さんは最終的に荒俣宏さんみたいになってほしいと思っています。

何を研究しているのかよく分からないような、人間の内面なのか自然界の一部なのか、収集して研究し続けてるワケの分からないなんか面白い存在になってほしい、という無責任な願望があります。

話が少し逸れましたが、
まぁ、でも荒俣さんもそうですが、と言うか今まで比較対象として上げてきた言論人も芸人も、皆さん等しく自身の体験や知識やその時頭の中にあるなにかを語ったり伝えたり残したり何も表現せずにただそこに居るだけだったり、何かしら触媒して他者に影響を微妙に与えてたりするから、こうして僕に存在を認識されていたりするわけです。

それはもはや、
その人自体が"場"として機能しているなと思います。

成田さんの面白さは、最小単位の声から始まって、最終的に場という地点にまで到達してると感じます。
そこにはある種の神格性もはらまれながら、芸人的な存在性で情報循環が成り立っていると。
これが僕の思う成田さんの面白さの仕組みです。

大量に拡散されている切り抜き動画とそのコメント欄の盛り上がりを眺めているとよりそう感じたりします。

それ自体の善し悪しはどうなのかは分かりませんが、
単純に変わったデザインの眼鏡を掛けた人がなんかよく分からない事を言っててなんとなく面白いなぁとぼんやり思っているのは事実です。

「面白さの仕組み」の話ではなく
「なんとなく面白い」というまとめになってしまいました。

まぁ、そもそも 面白さの仕組みなんか分かって説明出来るようなものじゃありませんし
そういうものだなとも思います。

ここまで話してきて分かってきたのは、
成田さんの面白さは「なんかよく分からないけど面白い」という事だけでした。

ただでも そのよく分からない不確定性が面白いという事なのかもしれません。

何かを見聞きして考えて導き出される結論は明確な真理というより外界への認識含めて個人の中でしっくり来るかどうかの感想なだけだし、データによって分かるのはあくまで過去の集積によって予想される結果でしかなく、それによって朧げに見えるのは生焼けでグニャグニャした半熟状態の仮想現実のようなもの

下手したら今あるこの現実も、集積された過去のデータからしたら よく分からない意味不明な、人間には予想もされてなかった結果のひとつに過ぎないのかもしれません。

それが面白いなと思います。


過去の成田さんを見て
今後彼は

丸い眼鏡を掛けるのか
四角い眼鏡を掛けるのか

データから予想出来たのか知りたいです。



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