『高安国世アンソロジー』よりー好きな10首(p.119-224)
「虚像の鳩」(1968)、「朝から朝」(1972)、「新樹」(1976)、「一瞬の夏」(1978)、「湖に架かる橋」(1981)、「光の春」(1984)、未刊歌篇から好きな10首を紹介します。このあたりから新かな遣いに変わっているようです。
風に揺れている草葉の様子を「いっせいに起きあがろうとする」と表現しているが、草葉の動きは風によるものではなく、蝶があやつっているようだとしているところがおもしろい。「白くあやつりの如く蝶来て」でモンシロチョウが想像された。蝶の飛び方は真っすぐではなく、ひらひら上下するように飛ぶ。その動きがまるで草葉を操っているようだ。
音のないものが並べられている。一瞬一瞬、何かが変わっているのに音をたてて知らせることもない。自分が見て、変化に気づかなければ何ということもなく流れてしまうもの。そうしたものを歌にすることで留めようとしたのだろうか。
音がないつながりでこちらの歌も。
バックミラーに映っていた車が音もなく消えることは何の不思議もないことだが、さっきまであったものが音もなく消えたことで、私の何かが拭われ、新しい瞬間がやってきたことに気づいたということだろうか。
こちらの歌では魚が跳んだ音が作者に届いたのだろう。静かな夕暮れ時に白い魚が跳んだという情景が美しい。初句から四句目までで、白い魚が跳ぶための舞台が整えられていくような構成になっていて、一瞬の出来事を写真におさめるような切りとり方が巧い。「昏れぐれの」の響きも美しい。
「ゆくりなき」が美しい言葉だなと思った。「予想もしない、思いがけない」という意味の古語である。遠くに見えている湖が夕暮れ前に輝いていたのだろうか。その湖のはなやぎを見られたことは思いがけず誰かに逢えた時の嬉しさに似ている。目にした美しさ、それはその瞬間との出逢いである。
駅の場所を表現するのに枇杷の実をつかっているのだが、本来はただそこにあるだけの枇杷の実と駅だったのに、作者によってそれらの間になんらかのつながりが生まれたところがおもしろい。枇杷の実が色づきはじめたころを「青く黄色くむらがれる」と色で大きく括っているところもおもしろい。
自身はストーブに火を入れ、その瞬間に心がゆるむ。もうこれから温まれるのだという安心感が伝わってくる。そして、「外の面ゆたかに雨の音して」と、雨の音に対して「ゆたかに」という穏やかな言葉をつかっているところに心に生まれた余裕を感じる。
春の雨が想像される。雨により庭では花ニラの香りがいっそう際立っているのだろう。その庭に自らも溶け込んでしまったということだろうか。「庭に沈めり」がいい。
私は大きな病気をしたことはないが、この歌を高熱を出して寝込んだ後のことを思い浮かべながら読んだ。「病みあとの身のふわふわとして」の感覚もわかるし、そんなときは、ただ日なたにいることに安心や喜びがあるものだ。
「枝は光を交わす」がいい。この表現がなぜか心にじんと響いた。芽吹くことで枝先がふっくらとして、それが光のように見えたのだろうか。それがいくつもあって電飾をつけたように枝と枝とが交信しあっているような様子が想像された。
『高安国世のアンソロジー』についての記事を3回にわてけ書きました。今回が3回目で、以上になります。お読みくださりありがとうございました。関連記事を下につけておきます。
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