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さがしもの(角田光代)

_さがしもの(角田光代)

_だれか
毎日はせわしくなく彼を迎えにきて、手をふるまもなく背中を見せて消える。

生活になれなれしく肩を組まれることもなく、意味不明な理由で恋人に去られた経験もなく、何かに強くあこがれて、そのあこがれの強度によって、あこがれに近づけると信じていたころの自分。

_ミツザワ書店
この本にはこれだけの言葉があふれているのに、それはすべて他人の言葉で、ぼく自身の言葉といったら、何も言っていないのに等しい幼稚な一言でしかない、というような気分。
自分の言葉で、自分自身の言葉だけで、何かを言えないものか。
拙くてもいい、饒舌でなくともいい、何か、何かないか。
自分の言葉を捜すようにぼくは文字を書き連ね続けた。

_さがしもの
タクシーのなかで泣く母は、クラスメイトの女の子みたいだった。
母の泣き声を聞いていると、心がスポンジ状になって濁った水を吸い上げていくような気分になる。

「死ぬのなんかこわくない。死ぬことを想像するのがこわいんだ。いつだってそうさ、できごとより、考えのほうが何倍もこわいんだ」

_________________『この本が、世界に存在することに』を改題した、本にまつわる短編集

この短編集では、さまざまな形で本が登場する。
出会い方も、内容もそれぞれ違う。
読みながら、思わず自分と本との出会いを考えてしまう。
そして最後にくるあとがきエッセイの題名が『交際履歴』というところまでが、一冊だと思った。
「いつか機会があったら、あなたの話を聞かせてください。本とあなたの、個人的な交際の話を。」

お母さんの読んでくれる絵本が好きだった。
スイミー、はじめてのおつかい、がらがらどん、11ぴきのねこ、日本昔ばなしにグリム童話…
そのうち読んでもらうより、自分で絵本を読み聞かせすることが好きになった。
それならと、母が図書館で紙芝居を借りてくれた。
そして紙芝居を読み聞かせするのが好きになり、あの頃はおそらく家族一同で私の紙芝居にやたらと付き合わされていたと思う。

小学校に入学すると、国語の教科書が面白くて仕方なかった。
くじらぐも、ちぃちゃんのかげおくり、一輪の花、私と小鳥とすずと、ありの行列…
物語も詩もそれ以外も、この一冊にいろんな世界が入ってるんだ!
と、やたら興奮しながら授業を無視してどんどん読み進めてた気がする。
(そのうち辞書に惹かれて、辞書ばかりひたすら読み進めるようになってしまうのだけれど…)

そこから何故か本に触れない時期が長らく続くことになってしまう理由は、いまだにわからない。

辞書を引くのは好きなのに、読書となると苦い顔。
だから朝の読書で読む本は、国語辞典という変な子ども。
読書感想文のためだけに、渋々惹かれもしない本を読んでいた気がする。

辞書と教科書という堅っ苦しい活字から、ようやく小説という軽やかな活字に触れたのは高校生も終わる頃だった。

「もっとたくさんの表現を知りたい」という理由から、今のように本を読みだしたのは大学生も終わる頃だった。

歌っても、詩を書いても、拙い表現しかなくて。
言葉をどれだけ知っていたとしても、それを思うように使えなければ意味がないということに愕然とした。

その歯がゆさが読書をするきっかけだったから、読んでいてなるべく綺麗だと思う表現ばかりを探してしまう。

それが悪いことじゃないよ
ということを教えてくれたのもまた、本だったように思う。

この短編集の中で、本を"世界への扉"と表現している一節がある。
それは日本でも、日本以外の世界の国でも、現代でも過去でも未来でも、本当にさまざまな広い世界を意味することであるけれど。
同時に"自分が生きる世界"という物凄く狭い世界に対して、"自分以外の自分が知らない世界"という無限の可能性を秘めた世界へと続く扉なんだと私は思う。

悩みをすぱっと解決する答えが書いてある本なんて、ほとんどないのかもしれない。
だけれど一緒に悩み、時に厳しく、時にはそっと包んでくれるように考える力を与えてくれるのが本の魅力のように思う。

「さがしもの」という本を通して私もまた、何かをさがしみつけたような気がした。

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