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花見

室内はすでに薄暗くなっていた。枕元の灯りのスイッチを入れる。そのとき妻の有希子が部屋にはいってきた。この前の面会はいつだったろうか。
「あなた、お元気だった? きょうはいいお知らせがあるのよ」
「なんだね。その若作りな身なりは」
かまわず彼女は興奮ぎみに言う。
「もうじき貴之たちが来るのよ」
「何でもっと早く言わないんだ」
私は昨日と同じ部屋着のままだった。
息子の貴之は広島に転勤となり嫁の寛子とともに緊急事態宣言以来一度も姿を見せなくなっている。―いやもっと前からだったかもしれない。そもそもおまえが何やらつまらないことで寛子さんと張り合ったのはいつのことだったか、まったく女というやつは。
もちろんそんなことは口に出したりしない。
「いいことを思いついたの。みんなでお花見に行きましょうよ」
「花見だって? 開花はまだまだ先だろう」
私は急いで羽織ったガウンの前をかき合わせた。
「いま、よ。ここでお花見しましょう」
 その瞬間ぱっと部屋が暗くなった、かと思ったらどうしたことか、天井は春霞がかかったような穏やかな青空色に染まっていた。そして四方の壁一面に満開の桜の影がゆらゆらと湧き上がってきた。ピンクの花弁が次から次へと開いていく。どこかの万博会場で見た360度スクリーンのようだ。満開の桜の天井画がドームのように広がっている。
「プロジェクションマッピングよ。婦長さんに頼んで特別にセットしてもらったの」
外はすっかり暗くなっていたが、部屋のなかには春の日差しがあふれている。
「さあ、明るいうちから一杯やりましょうよ」有希子は花見弁当らしき風呂敷包みをほどき、缶ビールを取り出した。弁当は小ぶりのいなり寿司とバームクーヘン状に焦げ目の入ったいつもの甘口の卵焼きだった。そういえば嫁の寛子はいなり寿司を大きめに、卵はだし巻に仕上げていた気がする。
「それで肝心の貴之たちはまだ来ていないじゃないか」
「ああそうだったわ。あの子たちは」彼女は芝居がかったしぐさで壁を指し示した。壁面のテレビに貴之が映っている。例のリモートというやつだ。
「父さん久しぶりです」
なんだ、そんなことだろうとは思っていたが。私は失望を隠して笑顔をうかべモニターごしの息子夫婦に話しかけた。
「やあ、元気にしていたかい」
「はい。父さんこそ体調どうなの」
「まったく変わらないよ。こうして母さんとふたりいつもどおりだ。相変わらず尻に敷かれて困っているよ」私はちらりと有希子の様子をうかがった。
「いや、ほんとうは、お前たちに一日も早く戻ってきて欲しいんだ。それというのも、」
言いかけてはっと言葉が止まる。有希子が固まったようにこちらを見ている。自分は何を言おうとしているんだ。まさかこの幸せそうな生活が偽りであるとでも? 今いる場所が高齢者病棟で妻は滅多に来ないとでも? 今さら父親としてのプライドが許さない。
「あ、いや。いいんだ何でもない。この部屋の桜がじかに見られなくて残念だな」
「それは、身延山久遠寺のしだれ桜です」
「何だって」
「だってぼくが作った映像だから」
「どういうことだ」
「それにその弁当も寛子が作ったんです。母さんのやり方を真似て」
「あんなに仲が悪かったのに。いやそれより寛子さんはいま広島にいるんだろう。どうやってここに届けたんだ」
「父さん、ぼくらは本当にここにいるんだよ」
そう言って貴之と寛子が部屋に入ってきた。
そうか。あれはモニターではなくただの窓だったのか。
やっと思い出した。妻は一年前に他界したのだった。私は同居しようという息子の申し出を拒否し、一人になった現実も受け入れまいとしていた。だがもういないはずの有希子がなぜここにいるのだろうか。
「ぼくらが窓のあちら側にいたのは、プロジェクターとお母さんのホログラムを操作していたからなんです」
 あれは確か、初めて四人で出かけた花見のことだった。記憶が鮮明によみがえる。寛子が用意した手作りの弁当の卵焼きの味付けを巡るいざこざに至るまで。
「大丈夫。きっと元気になりますから。春がきたら本物のお花見をしましょうね」
パチンという音とともにスイッチが切られると妻の姿は花吹雪舞う天井の空へと消えていった。

(2021.3「天井」応募作)

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