小説 介護士・柴田涼の日常 155 夢も希望もない緑川さん、仕事場が戦場になりつつある


 休憩室にCユニットの白井さんが自動販売機の飲み物を買いに入ってきた。

「お疲れさまです。あれっ、白井さん、何番ですか?」

「緑川先輩、お疲れさまです。今日は早番で、もう帰るんですよ。なんとも気持ちいいものですね。これからまだ残って働いていかなくちゃいけない人を横目に見ながら颯爽と帰ることができるなんて。って、オレ、スゲーヤなヤツじゃないですか」

「もう、Cユニットの遅番めちゃめちゃ大変じゃないですか」

「緑川先輩なら大丈夫ですよ。先輩の生き様を見せてくださいよ」

「オレなんて、もう先には絶望しかないですよ。今日も身体拘束委員会で杉原さんが『認知症の世界の歩き方』っていう本を参考にいろいろ述べてましたけど、よく勉強しますよね。オレなんか勉強したって何も変わらないって思うから勉強なんてしないんですよね」

「そんな夢も希望もないこと言わないでくださいよ。じゃ、お先に失礼しまーす」

 緑川さんは、介護の仕事に就いたのは八年くらい前で、その前はフラフラしていたという。「やっぱり勤め人じゃないと稼ぎは良くないですよ。Cユニットの若い神田くんは確信を持って仕事してるけど、オレなんか、これでいいのかなって思いながら仕事してるから、彼にいろいろ言われちゃうのかな。やっぱり専門学校出てる人は違うね」とも言っていた。

 なんだか平岡さんの態度がよそよそしい。それに何かを聞いてもそっけないし冷たい。きっと間宮さんが何か言ったのだろう。リーダーがそういう不公平な態度を取ってはいけないなあと思いつつ、淡々と仕事をこなしてゆく。こういうときは何かを言われたら「ハイ、ハイ」と聞いておくのが一番無難だ。こちらからは極力何も聞かない。話すだけでストレスになるからだ。仕事がやりにくくなる一方だ。仕事場が戦場になりつつある。敵に包囲されている感覚だ。本来味方であるべき職員が敵になってしまうことほどツライことはない。やるべきことを淡々とやっていくしかないだろう。一生懸命やっていればいつか認めてくれる日が来ると信じて。それなりに抜くところは抜きつつ。

 日勤の平岡さんが退勤したあとは、洗濯物のたたみと各居室への返却、翌朝のお膳の準備、二十時の排泄介助、キサラギさんのバイタル測定などを行いつつ、ケースを打ち込んでゆく。二十時過ぎに洋服に着替えたウチカワさんが起き出して「歯はないですか?」と義歯を受け取りに来たので「まだ夜の八時ですから寝ていてください。入れ歯は明日の朝渡しますから」と言ったこと、身体中が痒くてあちこちに引っ掻き傷ができているヨシダさんの手に手袋をはめようとしたが力強く握り締めているためなかなか装着できずにいたけれど小一時間ほど時間を置くと力が抜けてすんなりはめられたこと、トキタさんの食事介助のとき大スプーンにいっぱいのごはんを乗せて口元に持って行くとそれを嫌ってかむせ込んでしまうので少量ずつスプーンに盛って口に運ぶようにするとむせ込みなく食べられたこと、朝も昼も食事が進まなかったセンリさんが夕食時にお茶碗を落としてしまい六割ほどしか食べられなかったことなどを書いた。

 僕は遅番のほとんどの時間を動き回っているかケースを書いているかしていて、なかなかゆっくりできない。今日も退勤時間を十分以上オーバーしていた。なるべく早番者に仕事を回したくないのでつい洗濯物たたみを最後までやってしまうが、もっとうまくできないものだろうかと思ってしまう。

 外に出ると風が強くなっていた。いつの間にか今年もあと十日を切っている。たしかに、初任者研修の講師の人が言ったように、介護の仕事をしていると年月が経つのは早く感じられるような気がしている。それでも、仕事がしづらくなってくると、別の道も考えてみたくもなる。揺れるこのごろだ。

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