小説 介護士・柴田涼の日常 77 抗精神病薬をやめることになったトキタさん、事故発生の根本原因を考える

 翌日、遅番で出勤すると、トキタさんの食事の飲み込みが良くない。この頃、昼食と夕食時にそれが顕著になってきている。食べ物を咀嚼してはいるが飲み込めずに口の中に多量に溜め込んでしまっている。飲み込めないので、吐き出してもらい、また食べ物を口に入れるが、また飲み込めないので吐き出す、ということを繰り返している。実質の摂取量は一割にも満たないだろう。本人は食べたいという意思はあるが、飲み込めないのでどうしようもない。看護師の池田さんに相談したところ、飲み込みやすいように姿勢をやや仰向けにして喉の奥に食べ物が行きやすいようにしたらどうかと提案があった。おやつのときはそれでうまくいったが、夕食になると相変わらず飲み込めない状態が続いた。自分で食べているときは飲み込めているが、介助で食べるときはまったく飲み込まない。なので、なるべくご自身で食べるように促すが、スプーンを持たせてもなかなか手が動かない。トキタさんは、明日から抗精神病薬をやめることになっている。トキタさんは、以前、平岡さんの首根っこをつかんできたことがあったり、お膳に置いてあった薬をポイと投げ捨てたりしたことがあったりして、かなり精神的に不安定なところがあったようだ。薬を増やすことによって精神的には落ち着いたのかもしれないが、日中の活気がまったく見られず、最近は発語も聞かれなくなってしまった。これではまるで廃人だ。薬を減らすことで、なんとかトキタさんが元気になる方向に向かってもらえればと思う。

 平岡さんのお母さんは無事に退院ができたそうだ。仕事でも介護、家でも介護では大変だろう。無理だけはしないでもらいたいと思う。

 その翌日は日勤。昨夜、遅番の退勤後に着替えていたら、左の腰が急に痛くなった。ズボンをはくときに足を上げると痛むのでおそるおそる足を上げてズボンの中に足を通す。おそらく自転車のパンク修理のときの疲労の蓄積がここにきて出てきたのだろう。困ったものだ。

 午前中は、早番の平岡さんがお風呂介助に入り、僕はご利用者の見守りをしていた。やることがなくなったので、いつもは他の人がやってしまうコップの消毒をやってみることにする。茶渋のついたコップをただ塩素系漂白剤につけるだけだ。水切りバットにコップを入れてぬるめのお湯をはり、漂白剤を入れる。それに加え、歯磨き用のコップと義歯ケースも各部屋から集めてきて消毒する。これは大きなバケツにぬるめのお湯と漂白剤を入れて行う。ガーグルベースンはバットに入れる。三十分ほどつけたら食器乾燥機で乾かす。やってみると意外と簡単にできた。ひとつ、またできることが増えたのは嬉しい。

 安西さんは遅番でやってきた。最近の、といっても今に始まったことではないと思うが、この人の勤務態度はヘラヘラふざけている感じがして、それが目につくと不快になるが、気にするだけこちらが嫌な気分になるので、なるべく気にしないようにする。

 安西さんは、トキタさんの食事介助には一切手を出さない。ラクなセンリさんの食事介助のみをする。ヨシダさんの食事介助をしていたときに気づいたが、食べない人の食事介助は一番疲れる。手応えがないのも疲れる一因だが、食べる気力のない人に自分の気力が吸われているような感じがする。今度からは「安西さん、トキタさんをお願いします」とはっきり言おうと思う。

 安西さんは、十二月末で辞めるが、転職活動はしていないらしい。来年二月の試験が終わってから勤め先を考えるみたいだ。果たしてどうなることか。ちなみに、僕は引き止めることはしていない。「安西さんがいなくなったら困りますよ」なんて甘い言葉は囁かない。ご自分の行きたい方に進むのが一番だと思うからだ。来年こそ受かってくださいね!

 この日は、全体研修があった。講師は寺田次長だ。事故の再発防止について、グループでケース検討を行った。事故の再発を防ぐため、環境の整備を考えるより先に、そのご利用者にもっと直接的に影響のある薬や身体的疾患、精神的疾患について考えたほうが効果は大きいという話であった。そのご利用者の立場に立って、根本原因を探り、どうしてたとえばその夜の転倒事故が起こってしまったのかを考える。降圧利尿剤を飲んでいたから、おしっこが漏れそうで急いでいたのかなと想像し、もし降圧利尿剤を夜に飲んでいたのなら朝に変更する、そうした上で、もう少し早い時間に介助に入るようにするなどの対策を考える。事故の再発防止となると、どうしても床センサーを置くとか動線を確保するとか環境面の整備に話が行きがちだが、もっとご利用者の視点に立って根本の理由を考えたほうが解決しやすくなる、ということを学んだ。トキタさんも、薬を抜くことで食べ物がしっかりと飲み込めるようになるといいなと思う。

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