見出し画像

日本には、最高権力者の上に圧倒的な優位者がいる/二重権力構造の裏にある全面降伏の体験

 戦後日本がアメリカの庇護 、つまり支配下にあることは周知の事実である。それでも代々の首相はそれなりに、面従腹背的な対応を取りつつ、日本の国益を追求してきた。

 風向きが変わったのは小泉政権時代だ。アメリカの許可なく日朝首脳会談を行なって叱責された小泉は、政治生命を死守するために全面降伏した。

 イラク戦争の時は「自衛隊の行くところが非戦闘地域になる」と言うメチャクチャな理屈で支持し、自衛隊を派遣した。そして郵政民営化で、日本人の大切な貯金を金融市場に流して提供し、一部はイラン戦争の戦費となった。

 以後、日本はほぼ全面的な追従となって、安倍首相はゴルフクラブを送り、トランプの娘イバンカが食事を摂っているレストランの外で待ちぼうけを食わされていた。そしてイバンカが出てきたら小走りで駆け寄った。まるで家来のようだった。

 そして今、岸田首相になってミサイルの共同開発にまで協力させられることになった。「協力させられる」というのは、これがアメリカの利益のために仕組まれたもので、それに岸田首相が唯々諾々と従っているからである。褒められて舞い上がってさえいる。

 ここまでになるのは、戦後日本が抱え込んだ深刻な屈折があるからだ。鬼畜米英!と叫んでいたのが、敗戦と同時に一挙に反転、全てにおいて手本にするようになった。そういう圧倒的強者に対する全面降伏体験は、これが初めてではない。明治維新もそうだった。

 近代日本は西洋列強という強者に屈服して始まり、そして強者になりかけた時に再びアメリカに屈服した。二度までも圧倒されたのである。これは近代日本の精神構造に深刻な影響をもたらした。そして戦後は直接的にも間接的にも、様々な分野でアメリカの支配下にある。

 政府の上にアメリカがいるという特異な構造なのである。しかし、戦後日本の精神状況について発言を続けている加藤典洋は、支配層の上に真の支配者がいるという構造は、近代に始まったことではないという。

 加藤は「ある意味で日本は、文化的にも社会的にも、二重構造を本質にする国」だという。そして鶴見俊輔の次のような見解を紹介している。この極東の列島の住民は古来、圧倒的に優勢な優位文化の周辺に位置し、その力にさらされながら自己形成しなければならなかったと。

 鶴見は、日本社会に見られる二重構造の原型を、古来から続く民俗芸能の中に見ている。そしてそういう芸能が成立したのは、ちょうど古代、日本列島に中央政府が作られた時代だとしている。

 このような圧倒的な文化にさらされる場では、優位な文化をよく吸収し、それを効率的よく使いこなせる人間が力を持ち、優位な文化から遠い人間は下位に置かれる。そして下位者は言葉を失い、面と向かって抵抗も反抗もできない。

 優位に立つものと下位に置かれる者との、対立しながらもそれが表に出ない関係の原型は、中央からやってきた役人と、地方(ぢかた)の人々の関係に生じたと鶴見は言う。

 「中央政府から地方に派遣された官僚は、中国風に漢字を連ねて書かれたお触書を持って地方にやってきました(中略) 地方の人はこの公けの言葉を使って中央の官僚に口答えすることができません。と言うのは、この中央の官僚の言葉は、中国から輸入された漢文の書式に基づいていたからです」

 しかし、中央の役人と地方の人々の関係は絶対的なものではない。この二者の関係は相対的だ。なぜなら、この優劣関係を作り出しているのは、外にいる圧倒的な優位者だからである。それに比べれば、中央の役人と地方の人々との関係は、ちょっとした境遇と受容能力の差に過ぎない。つまり入れ替わり可能なのである。

 こうした鶴見の解釈を紹介しながら、加藤は述べる。「この二者の相対的な関係は、実はその底に圧倒的な優位文化に対する、いわば完全脱帽の経験を前提に成立していることがわかる」と。優位に立つ者と下位に置かれる者の関係が相対的で、入れ替わり可能であることは、いわゆるスクールカーストが絡む学校内のいじめ問題にも通じる。

 「海外からすぐれた文化を持った人が来る。その新しい文化をすみやかに身につけて支配層が語りはじめる。それは理路整然としていているように聞こえ、その物言いを身につけていない人は、すぐざま言い返しができない」 

 そこで渋い顔、しかめっ面を作る。それが、能で使われる「翁」という面の源流だという。この二者の関係が能のシテとワキ、狂言では主人と太郎冠者、現代の漫才におけるツッコミとボケにまでつながっている。

 そして優位に立つ者も下位に置かれる者も、外にいる見えない優位者によって、圧倒的な下位者として位置づけられているのである。しみじみと切ない話だ。

 岸田政権の茂木幹事長はパワハラで有名だが、「外国大使から面会を申し込まれても、アメリカ大使にしか会わない」と豪語している。現に傲慢にも、イギリス大使の面会要請に応じなかった。おそらく、イギリスもアメリカの下位者であり、かつ大使が女性だからだろう。

 しかしいくら威張っても、しょせんは虎の威を借りる狐に過ぎない。もっとスケールの大きなパワハラ男で、ランボーという綽名(あだな)のあるエマニュエル・アメリカ大使の前では、おそらく小さくなっているはずだ。ちなみに茂木幹事長も東大を出たあと、アメリカに留学している。

 直接的な植民地支配ではなく、間接統治がもたらしている複雑な屈折は目に見えにくい。それをいいことに、戦後日本はこれを直視することなく、主権を有した独立国であるふりをしてきた。

 支配層はそれを知りながら、暗黙の合意の下に沈黙している。その沈黙が、日本社会で支配層の一員でいられる条件でもあるからだ。そして、そういう態度が支配層のみならず、社会の隅々にまで行き渡っているのが日本の悲劇だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?