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スマホで誰でもいい写真が撮れる時代の、カメラマンの居場所

 娘はフリーランスのカメラマンだ。作品としては難民の若者の日常を撮っているが、生業としては何でもやる。就職情報誌や芸能人の写真撮影も行う。コロナ渦が始まる直前には三浦春馬の撮影をした。娘が撮った三浦春馬の写真は好評で、あちこちで勝手に使われている。しかしコロナ禍が到来して以来、仕事は激減した。

 娘は大学で写真を学んだ。そして三年生になった時、デジカメしか使ったことのない世代が入学してきた。社会がデジタル化に移行しはじめた頃である。すると大学も一気にデジタル化に舵を切った。そして暗室を廃止したのでる。

 学生たちは驚いて抗議の署名運動も起きたが、大学はそんなことは意に介さない。政府が国民の声など聞く気がないのだから、大学が学生の声に耳を傾けるわけがない。教授の中には学生と同調する人もいたのだが、そういう教授は窓際に追いやられ、学生と一緒に嘆くのがやっとだった。

 十数年前の時点で、一気にデジタル化に舵を切ったのは、経営的には大成功だったのだろう。だが暗室まで廃止してしまうのはどうなのか。これはもう経営判断以上に、哲学の欠如を感じる。

 デジタルが主流になるのは時代の流れだとして、フィルム写真も文化として残すのが大学の役割ではないか・・・などと言っても無駄である。何しろ大学が次々にビジネススクール化していた時代だ。十年経った今は言わずもがなである。

 そして今スマホの普及と進化で、写真は誰にでもうまく撮れるようになった。アプリでの加工も簡単だ。そのため、ライターが取材する時もカメラマンは必要ない。スマホでちゃちゃと撮影すれば済む。事件現場の写真も、その場に居合わせた一般人が撮影すればいい。

 今や、カメラマンの需要も仕事の単価も下がる一方だ。何より人件費の削減になる。写真を身を立てよう、何かをしようという志も立てにくくなった。もともと不安定な仕事だったが、もはや危機的状況にある。東京五輪にでも関わる以外、まともな収入は得られない。

 ワンストップという言葉がある。何でも一つで、あるいは一箇所で済ませることだ。ショッピングセンターやコンビニ、スマホがその代表である。この便利さが一方で、世界を貧しくしている。職業や産業の多様性を奪っている。

 私は毎年、世界報道写真展を楽しみにしてきた。今年は日本人が大賞を取ったのに、コロナ禍で話題にもならなかった。

 動画ではなく、紙に焼いた写真と向き合うのは芳醇な時間だ。動画と違って情報量が多過ぎないので、じっくり考えることができる。そういう能動的な姿勢が求められうのが、写真のいいところである。

 「誰もがいい写真を撮れる時代だからこそ、プロの腕と視点が問われる」と言いたいところだが、そこまで求められることは少ない。全体的に、我々はいいものを求めなくなった。日本は特に、経済的にも精神的にも余裕のない社会になっている。

 もちろんデジタルは便利だ。娘も仕事ではデジタルカメラを使っている。誰もがいい写真を撮れるのはデジタル民主主義の一環で、社会の進化でもある。しかし娘は、作品をフイルムカメラで撮影する。

 そこ残すのが社会の余裕であり、表現の多様性に対する配慮ではないだろうか。作品は服や机のように、形のあるものでも評価が定まっているものでもない。だからもともと立場が弱い上に、いくらでも値切れる。

 コロナ禍で日本政府と社会のポンコツぶりが明らかになり、もはや先進国とは言えない状況になったが。それでも表現を大事にして国の没落を防ぎたいと、私は考えている。

 そう言えば最近、元富士フィルムが社名を変更した。フジ・ビジネス・イノベーションだそうである。無惨な気持ちになった。

 

 



 

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