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40台後半のある日に気づいたこと

チャーシューを繰り返し作っている。
昔はとんでもなく手間がかかるものだと敬遠していたが、簡単にできるレシピをネットで見つけ、アレンジを繰り返し、作るたびに別の旨さになるのが面白い。

特長としては、オーブンを使わないこと。
マリネの時間も含めて、完成まで最短で2時間程度かかるけど、自分が手を動かすのはフライパンで焼き目をつけるところくらいで、あとは電子レンジで温め、ホイルとバスタオルでくるんで保温し、ほったらかせばいいので、すごくラク。そしてすごくうまい。
酒のつまみにもラーメンにも合い、そして個人的に一番美味しいと思うのはチャーハンに入れること。

今のように何でも最新情報が入るようになって気づいたけど、調理方法って日進月歩で、その割に変化が目立たない事が多い。
だから昔のままの不適切かつ効率悪い方法で作っている人が多いのでは、と。
それも皮肉なことにベテランほどその傾向があるような気がする。

便利なものがあれば使えばいいのだけど、気づいていないか、あるいは拒否しているか。
「昔のままの方法が一番いい!」という考えももちろんわかる。
けど、そのほとんど”知識も道具もなかったから非効率的にせざるを得なかった”のではないか。
じゃあ焚き火から調理を始めるのかっていうと、そんなことないと思うし。

というわけで、自分は新しいものを積極的に取り入れていきたい、と思っていた。
けどそこに問題が現れた。

新しいことをやろうとすると、脳が何らかのストレス感を全身に流し、固くなった体が、慣れた以外の挙動を拒否するようになった。
結果、意志と欲求が抑制され、やがて諦めに片付けてしまうことが増えた。若いときにはなかった症状だ。

そして思った。
ああ、これが古いものにしがみついて頑固な年寄りになる原因か。それで周囲の若者を自分に合わさせようと金や権を振りかざすと老害になるのか、と。
外国人の友人も「日本は素晴らしい国だ。老人が威張っている以外は」と言っていた。やがて自分も、無意識に新しいものを拒み、古いものこそ正義と主張し、遅れることに言い訳するようになるのだろうか。それはいやだなあ。
できるなら、持ってるものを提供して若い人に「いてくれて助かった」と役に立ちたい。それは彼らになくて自分にできるのは時間によって積み上げた「経験」の提供くらい。そしてそれによって得た知識や人脈だろうか。

料理だけでなく、生業の絵も、死ぬまで現役でいられる分野。(実はマラソンも該当するが、話が長くなるので割愛)
持ち物なら革や木のような経年で得られる美しいものを継ぐ。さしあたり、革のブーツかな。

そういう理由で、最近は若い人と話せる機会を大切にしている。
絵ももちろんだけど、共通点は料理に多く、料理好きな友人の子どもと一緒にカレーを作ったり、娘とその同級生が運営するレンタルキッチンを訪ねたりしている。
家事とはいえ、彼らが生まれる前から包丁を握っているアドバンテージのなかに相手が必要としているものが意外に多いので、それは惜しみなく伝えたいと思って。
あとは、それを材料に、彼らがそれぞれ目指す場所への進度を上げてくれればいい。

「人生100年時代」ということばは、残念ながら私には縁がなさそうだが、持ってるものを、次の世代が100年生きて築けるよう伝えるべきだと思った。押し付けず、気軽に求められるように。

幸いなことに、私には、そういうお手本の年上が何人かいる。
共通して言えるのは、いずれも若い世代と同じ目線で知新に意欲的。そして押し付けずに分かち合っていること。脳が発生させるストレスに負けずに。
そして、失敗を認め謝ることに躊躇がない(超重要)ことだ。

というわけで、私の持っているものを必要としている若い人がいたら声かけてください。今のうちに「渡すこと」に慣れたい。

そんな想いで、今朝も糠床をかき混ぜていた。

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