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【短編小説】最愛

 沙本彦と沙本姫、木梨軽皇子と衣通姫そとおりひめこと軽大郎女。好きになってはいけない血の繋がった実のきょうだい同士で恋に落ち身を滅ぼしたという人たち。あくまで伝説であり実際は後世に何らかの理由で尾鰭が着いたものだろう。兄や弟に恋するなどありえない。
 なのにおとうとに恋をした。
 きっかけは幼稚園の年長組になった弟、郁野いくのの何気ない言葉だった。
 「おれ、おおきくなったら、かおりとけっこんする」
 意訳すれば「おねえちゃん大好き」くらいの、どこの姉弟きょうだいでも交わされる他愛のない愛情表現だろう。
 しかしながら、この頃の郁野は小学二年生になった姉の香織から見ても、周囲の男児とは別格の可愛らしさだった。自分の弟ながら、もし一地方都市でなく、首都圏や関西の大都市にでも生まれていればどうなっただろうと思った。
 街でスカウトの目にとまって華々しく子役タレントとして芸能界入りし、あっという間に売れに売れて人気者になるんじゃないか。子供の妄想、姉バカといってしまえばそれまでだが、そんな確信が持てるくらいに香織にとって郁野は愛らしい弟だった。
 郁野の言った「けっこん」という言葉が正確にはどういうことを意味するのか当時の香織にはまだ詳しくは分からなかった。ただ、なんとなく好きな男女同士がずっと一緒に過ごす素敵なことだろうと少女らしい、いくらか憧れがこもった思いで郁野の言葉を聞いた。
 しかし不幸なことに、この郁野の他愛のないひとことが香織への呪縛となった。
 わたしはずっと郁野と一緒にいるんだ――。香織の心の深いところで、姉弟愛きょうだいあいとは別の郁野に対する想いが刷り込まれた。彼女を縛る長い異形の初恋が始まった。
 年ごとに郁野がきわめて見てくれの良い少年に育っていったのも、香織にとって不幸だった。
 思春期になると「あんた、弟くん紹介してよ」と友人に半ば冗談、半ば本気で言われるようになった。香織を追うように同じ私立の中高一貫校に入学してきた郁野は、そのきわだった容貌で彼女の周辺ではちょっとした有名人となった。
 「香織はいつまでいくくんと一緒にお風呂入ってた?」
 級友が折に触れて郁野をネタに冷やかす。
 「やめてよ、そんなこというの。覚えてないくらい小さい時だよ」
 思春期の女子の冗談は時として暴力的で悪趣味で過激だ。
 「本当に? 実はまだ一緒に入ったりしてない?」
 「怒るよ、そんな気持ち悪いこというと」
 ムキになるとさらにからかわれる。
 「まだ部屋が同じで二段ベッドの上下で一緒に寝てるって噂も聞いたよ」
 「いったい誰よ、そんな無責任な噂を流してるの」
 覚えていないくらい小さい頃どころか鮮明に記憶があるほど最近まで郁野とは一緒に風呂に入っていたが、そんなことは口が裂けても友人には言えない。
 郁野の群を抜いた見目の良さばかり目立ったが、香織も十分に美少女といえる容貌だった。だが、彼女の仲間うちの女子にも彼氏が出来始める年頃になっても、香織自身は男子から告白されることがなかった。
 ある昼休み、教室のベランダに椅子を出して一人で文庫本を読んでいた。窓際の席の男子の会話から自分の名字が聞こえた。死角になるのかそばにいることに気付いていないらしかった。
 「修二、告白しちゃえよ」
 「無理だよ、藤崎が俺と付き合うなんて」
 「なんでだよ。お前けっこうイケてるって女子の間ではいわれてるぞ」
 「藤崎ってさ、日常的にあんなイケメンの弟見てるじゃんか。好みの男のハードル高いって、絶対」
 「でもほら、藤崎ってよく一人で淋しそうに本読んでること多いじゃん」
 「そうそう。俺の姉貴が本屋でバイトしてるけど、週に二、三回は藤崎見るって」
 「でも本読んでる時の藤崎ってさ、なんとなく普段よりさらに近寄りがたくね?」
 香織に彼ができない原因は郁野の存在と、彼女自身のやや冷たく近寄りがたく思わせる雰囲気の美貌のせいだった。姉と弟いずれも人並み以上の容貌という事実は、彼女に同じ血の繋がりを意識させた。
 香織は時々、自分の弟に対する偏愛を自問自答する。そしていつも、冷静に分析してもやはり家族愛やきょうだい愛とは異質な愛情という結論に達して絶望的な気分になる。
 百歩譲って、果たして弟を好きになるのは悪いことだろうか。
 日本の古い伝説以外にも姉と弟、兄と妹が恋に落ちたという話はギリシア神話や古代エジプト王朝には珍しくない。ルネサンス華やかなりし頃のイタリアではルクレツィア・ボルジアの最愛の男性は実兄のチェーザレで、お互い愛し合っていたと噂されている。宮沢賢治だって一説によると理想の女性は妹だった。巨匠ベルナルド・ベルトルッチだって永遠を誓い合った双子の姉弟の映画を撮っているじゃないか。
 わたしは普通だ。おかしくなんかない。
 そう心の中で様々な理論武装を考えては思考の迷路に入り込んでしまう。物語や神話、歴史の例からいくら正当化しても、結論としてはやはり自分は普通じゃないと思う。なにより仮に自分は郁野に対する想いを正当化できても、郁野が応じてくれる筈がなかった。郁野の香織に対する気持ちは家族愛、きょうだい愛以上でも以下でもないだろう。
 死ぬほどの片思いの相手が弟。家族という小さな煉獄の中で香織は年を重ねていった。
 香織は高校を卒業すると地元の大学に進んだ。その二年後、郁野は東京の大学に進学した。生まれて初めての一つ屋根の下に郁野がいない日々が始まった。すぐに慣れるかと考えたが慣れなかった。どうしようもなくさびしく、何度も郁野の所に遊びに行った。ホテルなど取らず、郁野の部屋のソファで寝た。せっかく東京に遊びに来ても、郁野の部屋から出ていこうとしない香織に郁野は呆れているようだった。
 「今日は姉貴が田舎から出て来てるから都合悪いんだ」
 彼女から「今から部屋に行く」とでも言われたのだろう電話を郁野が断っている時、香織は見えない敵に勝った気がした。一方で東京に馴染んでいく弟を見ていると、このまま田舎には帰ってこないようで不安だった。弟のいない地元を想像すると凄まじいまでの喪失感に襲われた。四年間の東京生活の後、郁野が地元で就職を決め、実家に帰ってきた時は、心の底からうれしかった。
 地元で働きだしてしばらくすると、郁野がダイビングに熱中し始めた。もともと海の美しさでは有名な土地だ。梅雨明けから晩秋まで毎週末、彼は海へ出掛けた。
 「一緒に潜るバディがほしいんだ。姉貴だと気を使わなくていいし、いつもガイドさんを頼んで潜るより安くすむから」
 潜り始めた翌年、郁野が香織に一緒に潜らないかと誘ってきた。ダイビングは通常、水中での危険回避のためバディという相方と二人以上一組で潜る。郁野が香織に何かを一緒にしようと誘ったのはこれが初めてだった。迷わず彼女もCカードを取得してダイバーになった。休みが合えば二人で海に行った。初めて姉弟で同じ趣味を持つという新鮮な楽しさに香織はどっぷりと浸かった。
 そんな日常が三年ほど続いた頃、郁野が結婚を決めた。友人の紹介という相手は美人というよりは可愛いらしい、香織とは異なるタイプの女性だった。
 瞬く間に挙式当日になった。
 壇上にいる弟は立ち居振る舞いすべてが完璧な花婿ぶりだった。最愛の男が決定的に他人のものになる瞬間を親族席から香織は見つめ続けた。姉弟という絆がある以上、絶対的な別れにはならない。香織はそう思い込むことで郁野が他人のものになるのをなんとか精神的に消化しようとした。
 郁野の結婚後も時折二人で海へ行った。郁野の妻は潜るのは怖いといって一緒に来ることはなかった。この時だけは郁野が自分のもののように思えた。
 さらに二年後、その小さな絆を脅かす現実が起きた。郁野の肺にガンが見つかったのだ。幸い発見が早く手術は成功したが転移の可能性もあってしばらくは予断を許さなかった。肺にメスを入れた以上、寛解してももう以前のようには海に入れなくなる。
 郁野の入院中、時間があれば香織は病室へと足を運んだ。ある午後、回診中の看護師に声を掛けられた。
 「奥様ですか」
 「いえ、あ、はい」
 否定とも肯定ともつかない返事をする。
 「奥様が支えてあげてくださいね。何かと大変でしょうから」
 看護師が病室を去った後、郁野が苦笑しながら言った。
 「なんで否定しないの」
 「ん―、別にいいかなと思って」
 「変だよそれ。あ、本妻が来た」
 おどけながら郁野が窓の外に目を向ける。近づいてくる妻が見えた。
 「お邪魔しちゃ悪いから偽の妻は帰るね」
 香織は病室を出た。ロビーで妻と会う。彼女から声を掛けた。
 「だいぶ調子いいみたい。退院も近いかもね」
 そのほか二言三言、言葉を交わして分かれた。病院のロビーを一歩出た。日差しは春めいていたが風は少し肌寒かった。

 海際を走る県道の堤防の端の上を香織は歩いている。高さは道路側からは一メートル足らずで、香織の左側の歩道には郁野が並んで歩いている。
 「ねぇちゃん、危ないって」
 「大丈夫だよ。平衡感覚良い方だから」
 香織の右側は高さ五メートルほどの壁面で、下にはテトラポットが積まれている。波打ち際まで数メートルで、凪の時間帯の今は小さな波が寄せてはかえしている。体力を戻すため、郁野はこの海辺の道を時間があれば散歩していた。時に妻が、時に香織がその散歩に付き添っている。
 「小さい頃、歩道と車道を分ける白線の上を選んで歩く遊びよくしなかった?」
 「やったね。白線から踏み出したら地獄とかって決めて、下校の時とかゲームしながら帰った」
 香織の歩いている堤防のへりは砂利混じりのコンクリートが劣化して表面は小さくでこぼこしている。コンクリートから頭を出した丸く白い小石につまづいて香織がよろめいた。あわてて郁野が香織の左手を握って支えた。
 「だから危ないって言ってるだろ」
 「大丈夫だって」
 「大丈夫な訳ないだろ。テトラのほうに落ちたら大けがするじゃんか」
 「だったら海側が天国、郁野のほうに落ちたら地獄」
 「なんでそうなるんだよ。ほら、道路に戻って」
 「分かったわよ。ちょっと支えてね」
 郁野の手を強く握りながら、香織は堤防の縁から道路に飛び降りた。飛び降りると、そっと郁野の手を離した。

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