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【短編小説】驟雨

 できれば、そういう欄でその名前を見つけたくはなかったが、木曜日の朝刊の不幸広告にとても懐かしい名前を見つけた。
 学生の時に付き合っていた彼女の名前だった。卒業後に別の男と結婚していたはずだが、元の名字のままだった。住所も、喪主となっている母親の名前も記憶にあるものだ。結婚して変更された名字で表記されていて、実家でない住所だったら、多分気付かなかった。
 喪主が彼女の母親ということは、父親は彼女より先に亡くなったか、俺の知らない出来事が彼女の家に起きたのだろう。
 故人の家族一同には、覚えのない長女と次女と表記された名前もあった。彼女の娘たちだろう。通夜は翌日の金曜日、葬儀は二日後の土曜日の昼。死因は記されていなかった。
 付き合っていたのはもう、四半世紀も昔の話だ。
 その日一日、仕事をしながら迷ったが、結局は葬儀に行くことにした。本当に悼む気持ちが半分と、残りの半分は自分と別れた後に、彼女がどんな人生を過ごして、唐突に終えることになったのかを知りたいという興味だった。
 土日両日は息子とキャンプの予定を入れていた。葬祭会場で出棺の見送りまですると、一度家に戻ってキャンプ場に行くとすればテント設営は夕方になる。顔を出すだけにして、早めに戻ってこようと考えた。
 キャンプは息子が小さい頃は家族三人でよく行っていたが、妻は早々にアウトドアに興味を無くして、一緒に来ることはなくなった。もともと、それほどに好きでもなかったのだろう。
 息子も中学生になってから最近はテニスの部活が忙しく、この週末もキャンプに行くかどうかはぎりぎりまで分からないということだった。キャンプサイトを一区画予約していたが、状況によってはキャンセルすることになるかもしれなかった。
 土曜日の朝、やはり息子はキャンプには行かないと言いだした。日曜日の朝から、部活仲間と遊びに行くということだった。
 協調性を育むにはそれも結構なことだ。十代に知り合って行動をともにした仲間が、一生の友人になることだってあるだろう。
 そんなことを考えながら、薄目の生地のスリーシーズン用の黒いスーツを着て、黒いネクタイを締め、家を出た。
 初秋の空は晴れ渡っていて、スーツにネクタイではじっとりと汗ばんだ。ステーションワゴンに乗ると、クーラーを少し強めに効かせた。キャンセルするかどうかは葬儀の様子を見てからにしようと思って、出がけにはキャンプサイトの管理事務所には連絡を入れなかった。
 家を出る時にも、妻は特にどういった関係の葬儀に出席するのか聞いてはこなかった。
 葬儀会場は市街地中心部にある小さなメモリアルホールで、参列者はまばらだった。見知った顔もいない。
 受付で住所と名前を記帳した。葬儀には何度も出席しているが、たいていは仕事関係のものなので、いつもは受付で名刺を一枚渡すだけで済ませていた。今回も名刺を渡して記帳を省こうかとも思ったが、事務的で少し薄情な気がして手で書くことにした。ペンで記帳するのは久しぶりだった。自分の一人ぶん前の欄には、筆書きの流れるような達筆の記名があった。
 受付が済むと、スーツに白シャツ、白手袋、控え目のメイクのホールスタッフの女性に案内されて、とりたてて待たされることもなく焼香台の前に立った。そのスムーズな仕事ぶりにふと、日々の仕事が葬儀関係だと、人間の死に対する感覚はなにか自分とは異なった感じになっているのではないかと考えた。
 遺影を見上げて、一度頭を下げた。
 こちらが頭を下げるのに合わせて、祭壇横のスペースに座っている、亡くなった彼女の母親や二人の娘、親族と思われる年輩の男女も頭を下げた。次女と思われるほうの娘はどこかの中学の制服で、もしかすると息子と同学年かもしれなかった。
 彼女の母親はさすがに、自分の記憶にある容貌よりも老けた顔をしていた。目が合ったが、特に表情に変化はなかった。こちらのことを覚えていないのだろう。
 遺影は記憶にある彼女の顔よりもずっと儚げだった。
 彼女は中二の終わり頃に同じ中学に転校してきた。部活に入ることもなく、もう終わっていたので一緒の修学旅行に行くこともなく、すぐに受験を迎える時期にもなったので、同級生の間でも印象は薄いようだった。何度か開かれた中学の同窓会にも、顔を出していた記憶がない。
 高校は別だったが、たまたま地元の公立大学で一緒になり、キャンパスで顔を合わせるうちに付き合うようになった。
 なぜ別れたのか。今となっては確かな理由は思い出せない。どちらかがはっきりと別れ話を切り出した訳でもなかった。
 ただ、決定的に最後になった日のことは覚えている。
 ある夏の日に二人で車に乗っていて、なにか会話をしていた。車は当時デートカーとして人気のあったホンダのクーペだった。アルバイトを頑張って貯めた金と、親の援助で購入した中古車だった。
 車内で話しているうちに、土砂降りの夕立になった。
 大きな雨粒が車のルーフを叩く音に掻き消されて、彼女の言葉が聞き取りにくかった。ワイパー越しの視界も悪く、運転に集中しなければならなくなって、おざなりな相づちになっていた。それほど大事な内容の話をしている感覚もなかった。
 だが、彼女は彼女なりに大事なことを話しているつもりだったのだろう。少し、口調に機嫌の悪さが混じっているよう感じた。彼女の家まで送っていって、それが彼女と二人だけで会った最後になった。
 焼香を済ますと、ホールの椅子にいったん座った。出棺まではまだ小一時間ほどあった。
 受付に目をやると、なにか静かに揉めているようだった。
 ノーネクタイのシャツ一枚にチノパンという場違いな、自分と同じくらいの年齢の男が担当者となにやら言い争っている。
 さすがに場所が場所だけに抑制気味の声だが、「なぜだめなんですか」と言うその男に対して、担当者が「申し訳ありませんが、ご遺族からのご要望でして」との一点張りで返答している。男はなおも気色ばんで担当者に食ってかかっていたが、やがて葬儀場の責任者らしい貫禄のある男性が出てきてなにやら説明すると、男は諦めたようにホールから出ていった。
 周囲の、故人の母親の知人らしい女性たちの会話が聞くともなしに耳に入ってくる。
 「せめてダークスーツで来なさいよね」
 「そんなちゃんとした服持ってなんかいないでしょ、あの人」
 「さすがにねぇ、いくら娘の元の夫でも、民子さんは来てほしくはなかったでしょうね」
 民子さんとは、亡くなった彼女の母親の名前だ。
 「急性心筋梗塞でしょ。あの男に苦労させられたから、弱ってたんでしょうね」
 「最後に顔だけでも見せてくれなんて言われても、私だって嫌だわ」
 離れた後の彼女の人生の断片が入力されてくる。俺の知らないさまざまな出来事が、彼女に降りかかっていたのだ。
 出棺を見送ることにした。
 あとほんの二、三時間もすれば、つい先日まで動いていて、動きを止めた後もさっきまで棺の中に横たわっていた彼女のあの肉体は地上からなくなってしまうのだ。
 出棺の時間になった。
 棺を乗せた車を先頭に、続いて家族と親族を乗せた車が少し慌ただしさを感じさせながらメモリアルホールを出ていった。
 メモリアルホールから少し離れた歩道に、さっきの男が立っていた。男は車列が見えなくなっても、車列が去っていった方角を向いたまま身動きせずにいた。
 出棺が済むと、もともと少なかった参列者はあっという間にいなくなった。
 俺は駐車場に止めた車に戻ると、シートに身を沈めてネクタイを外し、深く息を吐いた。
 彼女とはもう二度とこの世で会うことがないという事実が、まるで実感がなかった。予定通り、キャンプに行こうと思った。
 一度家へ帰り、なんとか日があるうちにキャンプ場に着いた。
 手早くテント設営を済ませて火を起こす。
 湯を沸かして、持ってきたインスタントの袋麺とお茶で簡単に夕食にした。
 初秋の太陽は落ちるのが早く、あっという間にテントは夜の帳に包まれた。スーツ姿では汗ばむほどだった日中が嘘のように空気が冷えていく。
 テントの中でウイスキーをちびりちびりとやりながら、FMラジオを聞く。
 ラジオの音に重なって何種類もの秋の虫の声がするが、不愉快なほどではない。時折、遠くから車かバイクのエンジン音が聞こえるが、それ以外はおしなべて静かな、故人を偲ぶには丁度良い夜だった。
 夜半に驟雨がテントを叩いた。あの日車のルーフを叩いた雨音よりも大きい。しかし今夜は、掻き消される彼女の声はなかった。

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