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【短編小説】流れ着いたものは

 その男性のことは気になっていた。
 彼がこの田舎の海辺の町で暮らし始めたことは人づてに聞いてはいたが、しばらく姿を見ることはなかった。それが早起きした朝にたまたま浜辺を散歩していて彼を見掛けた。実際に会うと、何を思ってこの町に一人で越してきたのか、どういった人となりなのか一層の興味を持った。
 狭い地域のことである。まずは役場で移住促進係の仕事をしている知人に彼のことを聞いた。個人情報保護の観点やコンプライアンスよりも強固な地縁がものを言った。彼は関西で新聞記者をしていたが突然Iターンしてきたという。現在、町の林業公社で臨時職員として山仕事に従事しているとのことだった。
 人物像を把握すると偶然朝の同じ時間帯に散歩しているていで近づいてみることにした。最初は簡単な挨拶を交わす程度だったのが天気の話から世間話、そして共通の興味ある話と会話は日ごとに増していった。それでも、どこか心を開ききってはくれない彼だった。
 夏になった。
 夏の早朝は産卵のために上陸するウミガメの足跡が砂の上に残されていることが珍しくないが、今朝は細やかな砂の上には波紋しか残ってはいなかった。濡れた砂は朝の太陽を鈍く照らし返していた。
 今日は暑くなりそうだ。
 そんなことを考えながら、彼、矢島さんの後ろを理沙はついて歩く。
 矢島さんの出勤は早い。浜に朝の水蒸気が立ちこめるうちから散歩して、さっと仕事に出かけていく。夜は仕事から帰ってくるとすぐに眠るらしく、夜間に矢島さんの家の前を通っても灯りが点いていることはまずなかった。山仕事は現場は遠い。普通の勤め人が通勤する時間帯にはすでに深い木々の中に身を置いているらしかった。
 食事や飲みに誘ってみたかったが、一定の生活リズムを崩そうとしない彼とコミュニケーションを取るには、偶然を装って朝の散歩時に声を掛けるしかないのだった。
 何度か朝の浜辺で会ううちに、理沙はすっかりこのけして口数が多くない少し陰のある男性が気に入った。気に入ったというよりは夢中になったと言ってもいいかもしれない。
 今朝も彼は無口だ。時折、理沙一人がどうでもいいことをしゃべっているふうになる。
 「どうして記者を辞めたんですか?」
 あまりに間が持たなくなってうっかり聞いてしまった。
 「例えば、大臣がちょっと漢字を読み間違えたり、なにかを言い間違えたりすると一斉に資質を問うようなことを記者は書くけど、そんな自分たちが何様かと思うようになったんだ」
 なぜ理沙が自分の過去を知っているのかには興味がなさそうに、矢島さんは理由を説明してくれた。
 「自分たちが大臣としての資質を追求している人物が、実は英語に堪能で諸外国の元首たちと世界経済や平和について激論を交わせる人物だったり、実は数万人の社員とその家族の生活を支えているひとかどの経営者だったりするんだ。重箱の隅をつつくように一面だけ切り取って単純化した正義や正論を振りかざすのに疲れたんだ」
 矢島さんは理沙の質問に誠実に答えてくれた。ふと彼の後ろを歩く理沙の目に、砂と水の照り返しとは異なる光が映った。鈍く茶色に光る小さな箱が波打ち際の砂に埋もれていた。形はよく見るタイプの宝石箱だが表面のビロードはすっかり剥がれて錆びた金属の表面がむき出しになっていた。長く海中を漂っていたのかもしれない。
 気づいた矢島さんが拾い上げた。開けると、箱の中はきれいなままで、光る指輪が入っていた。
 「ほとんど新品じゃないですか。もったいないですね」
 矢島さんの手元をのぞき込みながら、理沙が言った。
 「そうだね。俺も元妻に指輪を返された時、もったいなくて質に入れたよ。それでわざと質流れさした」
 「結婚していたんですか?」
 彼のことはすっかり独身だと思っていた。
 「記者を辞める時に離婚したんだ。でも考えようによっては身軽になれたから良かったかもしれない」
 「なんでこんなところに流れ着いたんでしょう?」
 「たいしたバックストーリーなんてないと思うよ。橋の上でうっかり川に落としたとか案外簡単な理由だよ」
 そういいながら、矢島さんは大きく振りかぶって、宝石箱を再び海に投げ帰した。錆びた宝石箱よりも離婚や流れ着く先にこの町を選んだことなど、矢島さんのバックストーリーのほうが気になった。同時に、たまたまこの海辺の町に流れ着いた彼は理沙がどんなに願っても、絶対に「指輪買ってあげよう」などと理沙には言わないことも確信が持てた。

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