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【短編小説】書香

 筆が紙の上を走る静かな音だけが聞こえる。スッ、スッと軽やかに穂先が動き、白い平面に濃く薄く、時にかすれながら文字が連なっていく。
 半切はんせつに三行、中国初唐の書家、虞世南を臨書し落款らつかんを書き入れようとした時、視野の片隅で自分に視線を注いでいる人物に気付いて彼は顔を上げた。
 長谷川美香と目が合った。
 この春まで書道部長を努めていた3年生の先輩。薄く眉を描き、淡い色合いの口紅を塗っている。そろそろ思春期も最終盤にさしかかった顔つきは、あと数年すれば間違いなく美人といわれるだろう。
 「なんで俺をそんなふうに見ゆうがですか? 書きづらいな」
 観察するようにしばらく彼の顔を見続けると、さらに彼の両目をじっとのぞき込んで美香が言った。
 「竹村は絶対、コンタクトレンズにしたほうがえいと思う」
 思わず、彼、竹村は目をそらした。
 「唐突になにをうがですか」
 視線を紙に戻し、仕上げようとしたが文字が乱れた。集中力がとぎれた。落款を書き入れて立ち上がり、毛氈の上の紙を眺めた。全体にどこか違和感があった。
 美香が横に立ち、彼の字を眺めた。
 「あーあ。行が歪んじゅうし、落款が破綻しちゅうやんか。最後まで集中せんと」
 それはあんたの視線が気になったからだよ――。言葉には出さずに心の中で彼は反論する。
 「ちょっと借りてえい?」
 竹村の心中のつぶやきは当然無視され、美香が彼の毛氈に向かって座る。硯に置いた筆を右手でつかむと、軽く墨を含ませて、数回、筆先を硯で往復させて整えた。女子にしては長く、それでいて美しい指でそっと筆をつかむと、竹村が書いていたのと同じ部分を書き始めた。
 集中して筆を走らせている美香は不思議な存在感を示す。周囲で練習していた一年生が数人、あるものは筆を止め、あるものはしゃべるのをやめて美香と、彼女が動かす筆とに視線を集中させる。竹村も思わず美香に見入る。奇妙な静けさの中で、竹村が書いたのと同じ文字を書き終えると、美香はふっと息を吐いた。
 「あっ、予備校いかんと。前期コンクールまでもう少しやお。頑張りよ」
 腕時計をちらりと見て、軽く彼の肩をぽんぽんと叩くと、美香は慌てて部室を兼ねた和室から出ていった。入れ変わりに指導教諭の橋本が入ってきた。
 「ちゃんと練習しゆうか―。締め切りまで一カ月切っちゅうぞ」
 気持ち張り詰めていた部室の空気が、普段の少し猥雑な、いかにも高校生の部活動中といったふうに戻った。
 校門を出る直前、後ろから声を掛けられた。同じ学年の、三崎智絵がいた。
 「竹村、長谷川先輩となに話しよったが?」
 「別に、これといって」
 「嘘。長谷川さんとしゃべった後、竹村の顔あこうなっちょった」
 紅潮していたという、自分では気付いていなかった変化を指摘され、竹村は急に恥ずかしくなった。あの瞬間、部室全員の視線が自分に集中されていたような気もした。
 「何でもないちや。もっと集中しいやってアドバイスされよっただけやき」
 やや焦りながら竹村がそう答えると、智絵はじっと彼の顔を見て言った。
 「私も竹村はコンタクトのほうがえいと思う。その黒いセルフレームのメガネ、ちょっとフケて見えて損やって」
 「なんな、会話聞きよったがか」
 一緒に帰っていた山本が冷やかす。
 「三崎は素顔の竹村が好きやって」
 「意味分からんこといいなちや」
 日が長くなっていた。午後六時を過ぎても十分明るかった。あと一カ月もすれば梅雨だ。湿度で紙のすべりが悪くなる時季やな――。山本と別れた後、漠然とそんなことを考えながら彼は自宅への道を歩いた。

 「なぁ、俺、やっぱ、メガネやとフケて見えるか。コンタクトにしようかと思うがやけんど」
 夕食の後、リビングで一緒にテレビを見ていた中学生の妹、いずみに聞いた。
 「お母さーん、お兄ちゃんが色気づいたー」
 いずみがふざけて、母親に呼びかけた。食器を洗い終えた母親が台所から出てきた。
 「ねぇ、俺、コンタクトレンズにしたいがやけんど」
 「メガネで我慢しい。コンタクトってお金かかるがやお」
 「え、そうなが」
 「そりゃそうやお。メガネはメガネ一つで済むけど、コンタクトって洗浄液とかケア用品だかなんだかで、いろいろかかるがでしょ」
 お金がかかるといわれたらなぁ――。コンタクトにするには、「節約」が口癖の母という、やや高めの壁を超えなければならないことを彼は理解した。

 高校二年の夏はとりたててなにもなく過ぎた。
 「竹村、惜しかったな。ええ線まで残っちょったがやけんどな」
 指導教諭の橋本が、学校へ戻ってきた作品を返しながら言った。竹村が書いた虞世南の臨書は、夏前の展覧会では佳作だった。
 二学期が始まっていた。
 締め切りまでの数週間、竹村はそれまでになく書に打ち込んた。二年生になって部の中心メンバーになった気負いもあったし、あの日美香に自分の文字をみなが見ている前で批評されたことが(半ば自意識過剰かもしれないが)思わぬプレッシャーになっていた。部室で書き、さらに家に帰っても筆を持つという、書道漬けに近い生活を送っただけに、佳作に終わったのが不本意だった。どこかしら賞じゃないなにかほかのものを取り損ねた気持ちもあった。
 「すごい頑張りよったのにね」
 部室の壁に掛けた自分の作品を眺めていると、智絵が声をかけてきた。
 しばらく竹村の作品を眺めた後、智絵は彼に向き直った。
 「竹村があんなに筆握りゆう姿、私初めて見た。五月ごろまでは、部室来てもダベりゆうほうが多かったにね」
 「よう見ゆうにゃあ、人のことを」
 苦笑しながら、竹村が言葉を返した。じっと彼を見ながら、智絵は言葉を探すように口を動かそうとしたが、それ以上続かない。照れたような、なにかに少し怒ったような表情を一瞬浮かべると、「じゃあね」とだけ言うと部室を出ていった。
 いつのまにか、部室には誰もいない。静かになった部室は、墨の香りに交じって薄く潮の香りもしている。台風が近づくと、ここまで潮風が届くのだ。軸を巻いて片づけようとした時、声がした。
 「竹村は実力はあるのにね」
 美香が部室に入ってきた。
 「受験勉強、大変やないがですか」
 「なんか行き詰まってしもうてね。墨の香りって落ち着いてえいね。ちょっと道具借りてえい?」
 美香が彼の道具を借り、中国・明末清初の書家、王鐸を書き始めた。白い平面を見つめながら、綺麗に筆を運んでいく。この人、こんなに整った横顔だったんだ。竹村は初めて意識して彼女の横顔を眺めた。今までは割ときびしめの先輩としての、元部長としてのきつい印象しか持っていなかった。彼女が筆を動かしている時の、人が見入ってしまう雰囲気の一因が分かった気がした。規則正しく筆を動かす挙措動作の美しさと、居ずまいの美しさがそこには備わっていた。
 最後の一文字を書き終えると、美香が竹村の顔をじっと見つめた。
 「竹村、まだコンタクトにせんが?」
 用具を借りた礼を言うと、美香は部室から出ていった。竹村は今回は自分の頬が赤いことがはっきり自覚できた。
 その日の夕飯の後、彼は母親の論破に出た。ネットで仕入れた付け焼き刃の知識でメガネよりもコンタクトレンズのメリットを母親に説いた。
 「そろそろ、俺も受験を考えんと。あまり勉強しゆうとメガネやったら度が進むっていうやんか。何度も買い換えるよりマシやない?」
 息子の口から出た「受験」という単語に心を動かされたらしい。その晩、彼は母の説得に成功した。

 「竹村、やったな」
 秋の書展で最高賞を取った賞状を手渡しながら、橋本が言った。部室には推薦入学で京都の美術系大学に決まった美香もこのところ筆を持ちに顔を出していた。
 「やったらできるやん」
 受賞作を壁に掛けて見返していると、練習の手を止めて美香が話しかけてきた。
 「えらい俺のこと気にかけてくれますね」
 ほかの部員に聞こえないような極力小さな声で、探るように美香の目をのぞき込みながら、彼は言った。心中になにかしら期待がなかったといったら嘘だ。
 「竹村って、うつぶせで書きゆう時、無意識に左手でメガネのズレを直しよったろ。そやき、小さく文字が崩れよったがよね。コンタクトにしたらそれがなくなると思って」
 期待していた内容とはほど遠い美香の言葉に、かえって自分の小さな期待や勘違いが笑えた。部室の片隅で全身を聞き耳にしていたらしい智絵が必死に、少し涙目で笑いをかみ殺しているのが気配で分かった。

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