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【短編小説】栄 ~龍馬の姉の物語~

 久しぶりに戸外へ出た。
 高知城下の西端にほど近い、本丁筋にある屋敷から真南に歩くと鏡川に突き当たる。
 川を上手かみてに向かってゆっくりと歩みを進める。遠く望む北山は所々薄く先日の雪が残っている。山中には一族の領地があって、親戚にあたる良助が管理している。何年も足を向けてはいないが、城下を望む見晴らしの良さは心に残っている。
 鏡川はいかにも冬の終わりらしく、水量は少なく、白や灰色の小石が敷き詰められたような河原がだだっぴろく広がっている。河原のふちには枯れ葦が風のされるがままに、茶色い茎を揺らしている。
 風は冷たいがそれでも川沿いを歩いていると時折、百舌鳥の空気を切り裂くような甲高い鳴き声が聞こえ、芽吹き間近の川柳をかすめるように目白が羽ばたいている。寒さも終盤ということを告げていた。
 川堤からは、城下の西の端に盛り上がる丹中山たんちやまも見える。先祖達が眠る墓所がある。
 婚家から実家に戻り、名字も元に戻っている自分も、埋められるならあの地なのだろうかと栄は思った。
 丹中山を望む位置で四半時ほど考え事をする風情を見せた後、栄はきびすを返すと屋敷に戻った。一通り自分が生まれ育った土地の風景を堪能した。これで見納めにするつもりだ。あとは弟に、ある品物を渡せば自分のこの世での役割は終わる。
 実家に帰ってきて以来の癖で俯き加減で人に顔を見られないように歩く。それでも帰る道すがら栄の姿を見かけた近所のひとびとがみな、「おや、出歩いているとは珍しい」といった表情で彼女を見ていた。
 揃いも揃って奇妙な仇名を付けられたものだ。
 妹は「坂本のお仁王さん」。
 弟は「坂本の寝小便垂れ」。
 そして自分は「坂本の出戻りさん」。
 五人のうち三人までが近隣の住人からこんな仇名を付けられるきょうだいはそうはいないだろうと、栄はおかしかった。
 時勢が急旋回しているらしい。
 下級の武家ではあるが裕福な実家の片隅で、ひっそりと暮らしている彼女にもそれが分かった。
 栄は徒士かち格の柴田作右衛門に嫁いだ。夫婦仲は悪くはなかったが、姑と折り合わなかった。また、生来の病弱もあって跡継ぎにも恵まれず、実家である坂本家に戻った。
 戻ってきて以来、彼女は世間にその存在を知られるのを恐れるかのように、生きているのか死んでいるのか分からないように、ひっそりと人目を忍んで暮らしてきた。
 先年、将軍のお膝元である江戸近くに異国の黒船が来航した。それ以来、この山内家土佐二十四万石も沸きたっている。
 新たな英学という学問が流行っているようで、城下では小龍先生という藩お抱え絵師の塾に入塾生が増えている。小龍先生は絵を教えるかたわら、土佐から漂流の末、大海の向こうの亜米利加という国までたどりついた万次郎という元漁師から新しい知識を学び、それを塾生に伝えている。
 世情と関係があるのか、江戸での剣術修行を終えて土佐に帰ってきた弟、龍馬を屋敷に訪ねて来る客も増えた。龍馬は江戸で北辰一刀流桶町千葉道場塾頭まで勤めたにもかかわらず、土佐に帰ってきてからこっち、町道場を開くでもなくぶらぶらと過ごしている。先日も讃岐から伊予、瀬戸内海を渡って山口の萩までなにやら旅に出ていたようだ。
 実弟とはいえ、栄はこの年が離れた弟とはそれほど親しんではいない。
 龍馬が洟垂れ、寝小便垂れと噂されていた頃には栄はすでに嫁いでいて、この家にいなかった。栄と龍馬の実の母である幸は早くに世を去っていて、龍馬の面倒はもっぱら妹の乙女が見ていた。だから龍馬は乙女が育て上げたようなものだ。
 龍馬が近隣の悪童にいじめられると、乙女は本気で怒ってその相手をぶん殴りにいっていた。少女にしては背が高く美しく整った顔立ちだけに、怒気を含んだ乙女の顔はかえって恐ろしい。妹ながら坂本のお仁王さんとは言い得て妙な仇名だと、栄も納得せざるを得なかった。
 江戸での剣術修行を終えて帰ってきた龍馬を見て、栄は寝小便垂れと噂されていた少年から、ひとかどの武者となる礎を作った乙女の手柄を思った。まるで龍馬は乙女が磨き上げた玉である。ただし、その玉はこのところ日々を無為に費やし、曇りつつあるようにも彼女の目には見えた。
 その乙女も、嫁ぎ先の岡上家からしばしば帰ってきている。夫の新輔がよそに子を作ったのが遠因らしい。近く離縁して、本格的に帰ってくるようだ。なにも姉妹そろって出戻ることはないだろうにと、なにかと近所の噂になる血筋だとおかしかった。
 龍馬を訪ねてくる客に、武市半平太がいるのが栄には意外だった。
 半平太の秀才振りは地元では有名で、軽格の頭目然として慕われている。姉のひいき目で見ても龍馬の友としては格が違いすぎる気がするが、二人でなにやら激論を交わしていて、しかも時折龍馬が半平太を論破しているふうなところを見ると、あながち一方的に龍馬が劣っている訳でもなさそうだ。兄の権平にそういった話をすると、秀才と学問嫌いの違いはあるが、ともに名だたる江戸の剣術道場で塾頭まで勤めた間柄で縁戚でもある。そう釣り合わない友人同士ということもあるまいという返事だった。
 やはり栄には今ひとつ、龍馬という弟の価値が不明だった。
 半平太の来訪が増え、龍馬が出歩くことがさらに増えたある日、権平が龍馬の行動を見張れと家族に厳命した。なんでも龍馬が脱藩を企てているらしい。
 脱藩は家族や親類にまで累が及ぶ重罪である。しかし、このところ土佐藩では、藩の政治方針に賛成できない若く行動的な下級武士の脱藩が増えている。国のため、天朝様の為には、土佐にいたままでは力になれないということらしい。まさか龍馬がそんな大それたことをとも栄は思うが、龍馬の刀を権平が取り上げてしまったのを見ると、彼は真剣に龍馬の脱藩を気に病んでいるようだった。
 龍馬が本気で藩を捨てる気らしいと栄が気づいたのは、久しぶりに屋外へ出て鏡川河畔を散策した日の数日前の晩にさかのぼる。
 栄は夜中に蔵の方角で奇妙な気配を感じた。気のせいかと思いつつも、盗人なら大声で家人を起こさなければと用心しながら蔵のほうへ行くと、人目を避けるように蔵から出てきた人物と行き当たった。
 乙女だった。彼女は長い包みを抱えていて、栄に気がつくと、はっと驚いて動きを止めた。驚いた乙女の顔は死んだ母、幸の面影を濃く感じさせた。
 血のつながりのある女は年を取れば容貌が似てくるものだ。娘が母に似てきたり、姉妹が区別がつかないくらい容貌が似通ったりするものである。案外、自分と乙女も他人から見ればそっくりなのかもしれない。
 乙女が抱えている包みは刀らしく、考えるまでもなく龍馬に渡すつもりだろう。
 この当時、武家の刀については藩から厳重に管理するよう命ぜられていて、紛失は重罪とされた。脱藩者に与えるなどとんでもないことになる。乙女がこれほどの行動を取るということは、龍馬の脱藩は本気なのだろう。
 栄は一瞬で事態を悟り、覚悟を決めた。気まずそうに逃げようとする乙女を「話があります」と自分の部屋に呼んだ。必死に抗弁を考えながら部屋に付いてきた様子の乙女に栄は切り出した。
 「その役割、わたしに譲りなさい。それともう一つ、頼みがあります」

 龍馬は戸惑った。
 珍しく戸外へ散歩に出ていたという姉の栄が、屋敷に帰って来るなり自分に用があるという。いぶかりながら栄の部屋に行くと、栄は無言で布にくるんだ細長い包みを差し出した。陸奥守吉行だった。数日後、桜も七分咲きに開いた頃、屋敷から龍馬の姿が消えた。
 龍馬が姿を消したその晩、栄は短刀で自分ののどを突いた。急速に遠ざかる意識のなか、月明かりに地面に映された桜の枝の影を踏みながら山道を疾駆していく龍馬の姿を見た。乙女が磨き上げ、栄が狭い土佐から世に出るきっかけを与えた龍馬という玉が史上どういった役割を担ったのか、結末を知ることなく栄は世を去った。
 「出戻りさん」として人目に触れることもほとんどなかった栄の自刃は、近隣の住民もその噂が本当かどうか分からないままに時が過ぎていった。
 一つは栄の墓が建てられなかったことによる。もう一つは龍馬の姿が見えなくなった後もしばしば、俯き加減で坂本家から戸外へ出て行く栄らしき姿が見られたことにもよる。ただし、この女性は栄の衣装を着ていたものの、栄にしては少し背が高かった。乙女であろう。
 陸奥守吉行の行方不明については、坂本家にはなんのおとがめもなかった。
 命を懸けて自分を送り出した姉の最後を弟は知っていたのか。
 新し物好きの龍馬はしばしば人にねだって佩刀を交換する癖があった。しかし、陸奥守吉行は最後まで手放していない。京都近江屋で龍馬がその頭蓋を刺客に叩き割られた時、防御のためにかざして鞘ごと無惨に削り取られた刀はまぎれもなく陸奥守吉行だった。姉の運命を知っていたがゆえに、最後まで肌身離さずにいたものだろうか。

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